祝40万アクセス記念 これ以上チャラチャラ出来ない!
なんと私の浅く小出しずくめであるモンタナマン体験記が40万アクセスに到達致しました!この数は私が住んでいるビリングスの人口のなんと3倍に相当するのです。
正直、自分でも驚いています。
皆さん、今までモンタナマンを気にかけて頂き、有り難うございました。本当に感謝をしております。
本日から皆さんにブログを6年前に書き始めた経緯と理由、目的、その後に起こった体験談を真面目にご説明させて頂きたいと思います。
それでは、少し時をさかのぼり説明します。
アメリカ大学卒業後、一旦帰国して再び渡米。1999年にアメリカで長年時を過ごしたアメリカ人女性と結婚をしました。彼女はフランス、カナダ系のアメリカ先住民の混血でした。彼女は決して裕福とは言えず、むしろ貧乏な家柄でした。日本的に考えると絶対に不釣り合いでした。しかし彼女は正直で責任感があり、長身で白人の外見をしていて興味をひかれたと今はそう思います。そして私はアメリカに渡米して以来、常にアメリカ先住民と日本人との共通的なアメリカ国内においての差別扱いに胸を痛め、そして気持ちは慈悲へと変わり、悲しく切なく寄り添う愛情が生まれた事も理由かも知れません。
その当時、アメリカ人と結婚をしたら自動的に永住権が手に入ると考えていました。私の回りのアメリカ人も全員が同じ考えでした。
しかしそれは大間違いだったんです。
そして少し遅れて手続きをしたのですが申請中に留学ビザ、観光ビザの期限が切れてモンタナ州と連邦政府との間で書類処理が複雑になり、私は不法滞在扱いとなってしまったのです。
そんな状況でグリーンカード、就労ビザ取得の為、そしてアメリカに長期滞在可能にするために地獄の合法移民裁判が始まったのです。
勿論、移民専門の弁護士を雇いました。ビリングスにただ一人。 本人はイギリス人移民でイギリス訛り。白人男性でした。
しかし不運はここから始まりました。
たった400万人程度の人口を持つモンタナ州で就労ビザの申請をすれば申請者が少ないので早期に取得可能と信じていました。
しかし、それも大間違いでした。
私はアメリカという国、モンタナ州を理解していませんでした。留学期間だけでは理解は出来なかったのでしょう。
モンタナ州は共和党、赤い思想、アメリカ第一主義、日本人、よそ者を嫌う所だったのです。それ故に申請者が少ない予想は正しかったのですが、モンタナ州移民局で働く職員が移民申請手続きに不慣れだったなんて想像外でした。
カリフォルニア州で申請するべきでした。
裁判があるごとに州都であるヘレナという町に車で5時間かけて裁判所をへ足を運びました。しかし何故か裁判は午後5時過ぎの業務時間外にいつも開かれ、現場職員が様々な対応が出来ず、それを理由に身柄を拘束されてしまいました。
しかもヘレナの監獄へと。監獄をホテル代わりに使わされたのです。
信じるか信じないかはお任せしますが、ピザを監獄からオーダー出来たのには驚きました。拘留中には、私は直ぐにその環境に馴染んでしまい、皆と仲良くなり、囚人、監視員達のお気に入りにの人気者となってしまいました。
そもそもモンタナ州には移民勾留所施設が存在していません。一番近くの施設はコロラド州デンバーにあり、車で片道9時間かかります。
それを理由に裁判が行われる度に複数回も州都にある監獄へと収容されてしまったのです。
出たり入ったり。
裁判所からの手紙がポストに届く度には嫌な思いになりました。また収容されるのか?今度は何日、拘束されるのか?不安でたまりませんでした。
2002年に長女が生まれ、そのお陰で就労ビザが認められたのです。
裁判官の言葉は今でも忘れません。
(貴方の為に認めたのではなく、貴方の娘の将来の為に認めました)
そう告げられたんです。勝訴でした。
そして身元保証人として現在働かせてもらっている生コンの社長が当時から名乗りを挙げてくれたのでした。
3年半、時間が過ぎていました。あのビートルズのジョンレノンは4年半かかって就労ビザが認められたそうです。
この時からです。
どんなに金銭的に困っても、精神的に困難であっても、何が起きても子供から幼い時期は絶対に離れず、ビリングスで暮らして行こうと決めたんです...長く辛く不安で諦めたくなった3年半の移民裁判が終わり、新しい門出のはずでした。家族揃っての人生を始めたのですが...
続く