盛岡の街を専門学生さんが案内しました^^
盛岡の石碑・春を堪能しよう 1、材木町2、宮沢賢治石碑3、盛岡中学校石碑4、石割桜5、上の橋6、紺屋町番屋7、岩手銀行旧本店本館8、賢治清水8、盛岡城跡公園うにっち君&石割さくらちゃん 盛岡の有名な石碑や石割桜、建築物、自然も堪能できるコースを盛岡の街を盛岡カレッジオブビジネスの生徒さんがおもてなしの心で案内してくれました盛カレ新キャラクター ナビィちゃん学生さんが案内してくれるコースは何度か参加したことがありますが、専門学校の生徒さんが案内するコースは初めてですね。我がお子らと似たような年頃なこともあってママ的には話しにくいということは無いのですが、旦那が内向的な性格がゆえに生徒さんのとの会話は苦手とか・・。んん?五木&ひろし???旭橋から見た岩手山綺麗ですねぇイーハトーブアベニュー材木町材木町は,古くは岩手町といったそうですが,承応4年(1655年)に材木町と改められたそうです。その後,柾(こば)町と呼んだ時代もあったそうですが,文化年間になって材木町と定められたそうです。北上川の春木場が対岸の木伏(きつぷし)にあり,材木商が盛んだったことが由来だとか・・。材木町には、宮沢賢治とその作品にちなんだモニュメントが並び、 独特の雰囲気をかもしだしています。 盛岡中学校濫觴の地 碑岩手銀行本店の横, 歩道脇の植込みの中に, 石川啄木の歌が刻まれた石碑「盛岡中学校濫觴の地」が建っています。この碑は 1983(昭和58)年11月に建てられました。ここは 旧制盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高校)の跡地で、1880(明治13)年に「公立岩手中学校」としてこの地に設立され、その後 「岩手県尋常中学校」「岩手県立盛岡中学校」などと改称し, 1917(大正6)年に 現在地(盛岡市上田3丁目)に移転しました。戦後 1948(昭和23)年に「岩手県立盛岡第一高等学校」と改称し, 現在は 男女共学となっています。県内の高等学校の中では最も長い歴史がある学校です。 盛岡地裁前の石割桜(エドヒガン)は国の天然記念物盛岡地方裁判所前の石割桜は、巨大な花崗岩の岩の狭い割れ目に直径約1.35メートル、 樹齢が360年を越えるといわれるエドヒガンザクラが生育していて、市内で一番早い開花宣言が出されるサクラと言います。さすがに花の見頃は終わったようでしたが、満開でしたらさぞかし綺麗でしょうねぇ^^ 上の橋青銅擬宝珠(国指定 重要美術品)上の橋は、南部家第27代当主(第2代藩主)南部利直によって、盛岡城築城にあわせて中津川にかけられた「上の橋」、「中の橋」、「下の橋」のうちの一つで、1609(慶長14)年と3橋の中では一番歴史が古く、青銅製の擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)が取り付けられたのは、 1336(延元元)年後、村上天皇より恩賞として京都鴨川橋の擬宝珠の使用が許されたと伝えられています。 紺屋町番屋(盛岡市の保存建造物指定)屋町番屋は大正2年(1913)に消防番屋として建てられました。木造2階建て、寄棟、金属板葺きの建物で外壁は下見板張り、窓は縦長の開き扉が採用されています。屋根の上には望楼が設えられていますね。消防施設の変遷を知る貴重な建物です。 岩手銀行旧本店本館(盛岡市保存建造物に指定)岩手銀行旧本店本館は,1911年(明治44年)に3年の歳月を要して旧盛岡銀行本館行舎として竣工されました。1984年(昭和59年)の岩手銀行本店新社屋完成に伴い,中ノ橋支店となり,現在に至ります。この本館は平成24年8月3日銀行としての営業を終了しました。 賢治清水宮沢賢治が大正6年より盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に弟清六と二人で大沢川原一丁目の玉井家に下宿していた当時、宮沢賢治が使用していた共同井戸です。この井戸の水を10メートルほどボーリングし、大変良い清水に恵まれ「賢治清水」と命名されたそうです。 盛岡城跡公園南部藩主の居城であった盛岡城の旧跡で、28代藩主重直の時代寛永10年(1633)に完成しました。北上川、雫石川、中津川を自然の壕に利用した平城で、不来方城とも呼ばれたそうです。現在は石垣や池が残り、盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん)として四季を通じて市民に親しまれています。昼食はこちら盛岡城跡公園で開催されていた盛岡さくらまつり会場で食べることになりましたので、当然手ぶらの我が夫婦は、まつり露店の定番、焼きそばを頂きましたわゴールの盛岡駅で、盛岡カレッジオブビジネスの学生さんが作ったスイーツを頂きました。┳┳ …..(((((ヾ( o・д)っ ゴチソウサマ♪ ですさすが、接客サービスの専門に学ぶ専門学校だけあって、街の説明も丁寧でわかりやすくお話ししていただいて、夫婦二人とも大変勉強になった一日でした。これからも盛岡の為におもてなしの心を持って頑張ってほしいと願っています。