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ないものねだり

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2011.03.30
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カテゴリ:本を読もうよ♪

今から88年前、死者行方不明者10万5千人以上という被害に見舞われ、瓦礫と化した東京を復興した男がいた。


首都東京の復興を担って、帝都復興院の総裁に就任した後藤新平だ。 大正12年(1923)9月1日、関東大震災が発生し、下町を中心に市街地の45%が消失、帝都東京は瓦礫と化した。 翌2日に第二次山本権兵衛内閣がスタートすると、後藤は内務大臣と兼務して、被災者の救援と復興の責任者となった。 


後藤は就任当日の夜、自宅の机に向かい、大胆な震災復興計画「復興根本策」を書き上げた。 大規模な区画整理に加え、緑地公園、公共施設、幹線道、港湾の整備が含まれた規模で、国家予算1年分に相当する13億円の巨費を必要とする内容だった。


当然のことだけど、政財界からは猛反発を受けて計画の縮小を余儀なくされたけど、それでも5億7千万円という予算で落ち着いた。


区画整理を伴う新都市計画実施のため、地主や地権者に断固たる態度をとった後藤の政策には批判も浴びせられた。 だけど後藤の方針は決して揺るがなかった。 


災害の復興には、スピーディーな決断実行が重要なことを肌で感じてたみたいだ。 こうして、後藤の覚悟と執念で、震災から9年後の昭和7年(1932)に帝都は見事に復興し、現在の東京の基礎となった。


関東大震災の復興プロセスには、今の政府が学ぶべきところはたくさんある。 何より、後藤が「遷都はしない」と断固決意して明確な方針を打ち出し、迅速に動いたことだ。 帝都復興院が機能したのは、やはり政治家として力量のある後藤の存在に負うところが大きい。


パソコンも電卓もない時代、震災から僅か3日目という立案スピードには本当に驚かされる。 しかも、後藤が復興根本策として記した内容は、まさに現代の東京の姿だった。 後藤の「復興」を掲げた復興根本策は、震災から11日目に天皇の詔書として発せられ、4週間後に帝都復興院が設立されている。


後藤の独裁的な復興政策は、地主や地権者の私有財産権を無視した部分もあり、今も批判する人は多い。 


だけど... 未曾有の災害に見舞われた中で、初動の対応が遅れたために、生存者の命さえ危うくし、被害を増大させてしまうような政治より、遥かに実行力機知に富んでいたように思う。



東北地方太平洋沖地震からの復興に向け、与野党で「復興庁」「復興院」設立の構想が浮上してる。 震災から二週間以上経過した段階で、現実はこのレベルだ。 しかも、このカタチは88年前の"コピー"に過ぎない。


大事なことは、復興の担当機関をつくることじゃない。 「仏を造って魂入れず」ではダメなんだ。 一日も早く、被災地と被災した国民を救うためにブレないビジョンを打ち出すこと。 21世紀の現代でも、何より求められるのはトップの"力量"だよ。


晩年、後藤は数の論理で支配する政党政治を批判して、政治に倫理確立を唱え続けた。昭和4年(1929)、遊説に向かう途中の列車内で倒れ、京都の病院で永眠。 倒れる直前に残した言葉が心に響く。


「よく聞け。金を残して死ぬ者は下だ。 仕事を残して死ぬ者は中だ。 人を残して死ぬ者は上だ。 よく覚えておけ。」 これが、後藤新平が最期に残した言葉だ。










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Last updated  2011.03.31 00:16:59
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