テーマ:文学・歴史(104)
カテゴリ:歴史よもやま話
その昔、武家社会では仇討ち赦免制度というものがあった。 制度として、仇討ちの歴史を辿れば、江戸時代からとなる。 仇討ちは、儒教的な倫理観によって正当化され、制度化されて行く。 各藩公認で実行された復讐は、約100件あったといわれている。 維新という、大きな時代のうねりによって政権交代は果たしたものの、 新政府は決して磐石ではなく、何度も分裂の危機を抱えながらの船出だった。 農民や士族の蜂起、西南の役など、乗り越えなければならい試練は山積していたんだ。 明治4年の廃藩置県、その後の地租改正と徴兵制で幕藩体制から脱しつつあった日本に、 もう一つ必要だったのは近代国家の社会秩序をつくることだった。 文久2年(1862)、倒幕と佐幕に揺れる赤穂藩で事件が起きた。 赤穂藩家老 森主税と藩の重臣 村上真輔が、攘夷派の下級武士らに襲撃され斬殺された。 この事件によって赤穂藩は一気に尊皇攘夷に傾き、襲撃した下級武士らは裁かれず、 逆に森家と村上家が一時処分を受けることになってしまった。 その後、両家は直ぐに復権するが、藩は両家に決して仇討ちを認めず、 藩はむしろ襲撃犯らを庇うようにして、高野山にある藩の墓所の警護役に任じた。 事件は個人的トラブルではなく、藩内の政治対立による暗殺の色合いが濃厚だったため、 その当時の時流も手伝って、藩の事情も余計に複雑だったんだ。 次回につづく... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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