ホレホレ節...
ハワイ、ハワイと 夢見てきたが流す涙は甘庶(きび)の中行こかメリケン 帰ろか日本ここが試案のハワイ国今日のホレホレ 辛くはないよ昨日届いた里便り横浜出るときゃ 涙で出たが今は子もある孫もある条約切れても 帰れぬ奴は末はハワイのポイの肥(こえ)※ポイとは、タロイモの意。(ホレホレ節より)ホレホレ節は、ハワイの日本人移民が歌い継いできた労働歌だ。 ホレホレ節の旋律は、当時、山口や広島、熊本の出身者が多かったため、それぞれの地域の特徴が混ざったメロディーだと推定されている。公式の移民は、明治18年(1885)の第1回ハワイ移民の940名が最初とされるが、これより18年も前、"元年者"と呼ばれる153名の伝説の移民が存在した。折りしも、江戸無血開城直後の明治元年(1868)4月24日のことだ。この移民は、幕府役人とイギリス人ブローカーとの非合法の契約だったため、明治新政府には許されないまま横浜から無断出港して移民をしたという。一方、公式のハワイ移民のきっかけは、明治14年のカラカウア王の訪日だった。この頃、領土拡張を狙うアメリカ政府と農場主や実業家の画策によって、ハワイ王国は国家存亡の危機に瀕していた。カラカウア王は、日本の皇室とハワイ王朝が縁戚となることでアメリカを牽制し、ハワイの独立を保とうという望みを繋いでいた。もし実現していれば、ハワイは東京都になったかも知れない。世界一周旅行の途中、来日したカラカウア王は、さっそく明治天皇に謁見し、自分の姪と山階宮定麿親王との婚儀を申し出たが、王の願いは実らなかった。しかし、この時に日本から移民を送る協定は交わされたのだ。そして、明治18年(1885)1月27日、ハワイ移民第1号の940名が、シティ・オブ・トーキョー号に乗船して横浜を出港し、ハワイを目指した。その後、移民は明治26年まで続き、約3万人がハワイに移住する。政府公認の移民とは違って、元年者の移民はあらゆる面で苦労を強いられた。しかし、彼らが土壌をつくり、ハワイ発展の礎となったことはいうまでもない。ハワイ王朝末期、日本で激動の維新を生き抜いた元年者はハワイの地でも、土地の人たちとともに荒地を耕し、アメリカに後押しされた共和制派と戦い、王朝を最後まで守ろうとしたそうだ。冬の様相を呈した庭には、祖父の植えた椿が次々に花をつけている。そういえば、今日は12月8日だった...