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ないものねだり

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2012.01.09
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テーマ:歴史の探索(130)
カテゴリ:歴史よもやま話
(清盛塚と琵琶塚 砂浮琴撮影)

昨夜、NHK大河ドラマ『平清盛』がはじまったから、観た人も多いだろうね。
平清盛は、平安末期の武将で公卿、そして優れた政治家でもあった。


平氏というと、北面の武士だった砂浮家の先祖とは激しいライバル関係にあった。
ドラマの忠盛や清盛は、子供の頃、砂が周りの大人たちから聞いたイメージとは、
それはもうかなり違ったね。砂は、未だに平氏にいいイメージは持てない。(笑)


資料に残る清盛は、伊勢平氏の棟梁平忠盛の子として生まれ一族の棟梁になる。
保元の乱では、後白河天皇の信頼を得て、平治の乱では勝利を手にして、
武士としてはじめて、太政大臣に任ぜられる。





こうして、政治の実権を握った平氏は、そりゃもうヤリたい放題...
娘の徳子を高倉天皇に嫁がせた後、上皇となった後白河を幽閉したり、
徳子の産んだ安徳天皇を擁したりして、『平家物語』の記述にあるように、
"平氏にあらずんば人にあらず"というような一時代を築いたんだ。



それにしても、平氏はあまりにも急激に、しかも強大になり過ぎたもんだから、
治承三年の政変では、横暴極まる平氏の所業は、貴族や武士から大きな反発を受け、
とくに平氏に抑圧された源氏憎悪は激しかった。


そして、源氏による平家打倒の兵が挙がる中で、清盛は熱病に罹って没した。


確証がある訳ではないけど、清盛には落胤(らくいん)説がないこともない。
『平家物語』の記述では、母親は祇園女御(ぎおんのにょご)とされて、
白河法皇の子を懐妊した祇園女御が、忠盛に下賜して清盛が生まれたとある。


だけど、当時、祇園女御はすでに40才を越えていたのだから可能性は薄く、
むしろ、保安元年(1120)七月十二日の『中右記』の記述に読み取れる。


忠盛の妻が、白河法皇の周辺に仕えた女房だったという記述にヒントがある。
名前も、出身もそこには一切記されておらず、身分は高くなかったようだけど、
もしも落胤説の可能性があるなら、忠盛の妻ならあり得たかも知れない。


NHKのドラマは、清盛の出生を『中右記』のこの記述から創作した脚本だ。
第一話に登場した、舞子という白拍子(しらびょうし)は実在しない脚色なんだ。
だけど、中世のこの時代には、落胤の存在は珍しい話ではない。
平安や鎌倉時代の権力者は、ことのほか"スケベ"だったんだ...(笑)



我が家の表家紋は源氏車、そして、裏家紋は違い柏。
とくに、裏紋は血統や氏素性を色濃く映すものだから、
家紋に詳しい人なら、容易に想像がつくだろう...



写真は、神戸にある清盛塚と琵琶塚。














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Last updated  2012.01.09 16:03:12
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