モーツァルトソナタ イ長調 2008. 5. 9
GW 前後、愛知と京都の舞鶴で、高校1年の女子生徒が相次ぐように、不審者に襲われ、15歳の命を落とした。 15歳、まだ高校に進学したばかり。 襲われた後、真新しい教科書などの入ったバッグが現場近くに放り投げられていた。 その教科書やノートには、新しい学校で受けたばかりの授業への戸惑いや新鮮な驚きが詰まっていた。 舞鶴で殺された少女は、定時制高校に入学したばかり。絵を描くのが好きだったという。 彼女たちは、生まれてまだ15年で、これから先、様々な夢や目標、希望があったことだろう。 でも、そんな将来全てが、訳の分からぬ未だ正体不明の犯人によって、無残にも断ち切られてしまった。 私は、今、バイオリンで「モーツァルトソナタ イ長調」を練習している。 「ソナタ」の意味も、「イ長調」の意味も分からず、ただ、楽譜を読んで、弾き方を頭に入れて弾く。 こんな優しい曲を演奏している時、事件に巻き込まれて亡くなった少女たちのことなどをも考える。 「もしかしたら、あの子たちは音楽が好きだったかも知れない。好きな音楽が色々あったのかも知れない。何か楽器を習っていたのかも...」 そう思うと、余計に事件の残忍さが浮き彫りにされる。 私は、そんなことを考えながらも、「モーツァルト」を練習している。 モーツァルトは、レクイエムなど部分的に好きな曲はあるが、全体として、好みの作曲家、というわけではない。 だが、私は最初のバイオリン入門書に飽きて、別の入門書を練習する前に、「今弾ける音階で、何かクラシックを弾きたいな」と思って、自然と、「♪ミ~ファミ~ソ~ソ♪ レ~ミレ~ファ~ファ♪」を弾いていたことがあった。 それが天下のモーツァルトのソナタとはいざ知らず。 楽譜を見て、おなじみの「スラー」をふんだんに駆使した曲を練習するうちに、つくづく「スラーというのは、バイオリンを演奏するのに必須のテクだな」と実感。 いちいち、弓を上下左右にギコギコ、しなくっても、弓をダウンボウ(上から下に)弾く途中で、「ミ~ファミ♪」を音がぶれないように弾き、それから左右に弓を動かし、「♪ソ~ソ♪」と弾く。 そういう、スラーの技法を練習していると、自然と指がそう覚えるようである。 移弦の際にも、スラーは応用できて、ソナタの最後の部分、A弦(右端から2番目)の「♪ミ~ファ」をスラーでダウンボウで弾き、右端のE弦の「♪ソ~」をアップボウ(下から上)で弾き、後はE弦「♪ラシド」からA弦「♪ド~」をスラーで(弓の方向を変えず)ダウンボウで、そのまま移弦して弾く。 締め括りは、アップボウで(A弦)スラー「♪ミレ」&「♪ド~」(ダウンボウ)というように弾くのである。 こういう「ここでスラー、ここはアップボウ」とかいうのは、まあ短い曲なので、練習するうち、頭に入れてしまい、実際に「もっとここを綺麗に弾きたい」と練習する際は、ほとんど楽譜は見ない。 弦を押さえる指も見ていない。 指を見ながら弾くと、弦を弾く弓の位置がずれて、余計に?変な音、変な音階になってしまう。 ピアノもそうなのだが、いったん楽譜を覚えると、私は楽譜を見ながら弾く、というのが嫌である。 などと書くと、いかにもプロ級並みのようだが、単なるアマチュアの繰言なんである。 それでも、アマなりに、曲は続けて、表情を持たせて弾き通したい。それで、よほど間違ってないか、忘れてない限り、楽譜は覚えてしまえば、見ないようにしている。 それを、私は、バイオリンでもそうするとは、自分でも思わなかった。未だに、ビブラートが出来ないでいるのだが、バイオリンというのも、素人でも楽しめる、ということは十分分かっただけでも嬉しいことだ。 私は子供を産んで、その子が5歳の時からピアノ、13歳からバイオリンを始めた。人生が続く間は、何か興味を持ったものに、挑戦していきたい。 以前にも書いたが、このバイオリンそのものは、本来は息子の現在の、出口の見えないトンネルのような「不登校」の日々に変化をつけてあげたい、との考えがあった。 だが「不登校」というのは、心の病気である。わが子であっても、「今何をどう感じているのか」を推し量ることはできても、それらは不正解の確立も高い。 息子は、4月7日に、「2年の新クラスに、いじめ連中がいない」ことを担任の先生から知り、心が軽くなったのか、一度だけ、自分から、新しい英語の教科書をめくり、また、バイオリンを構えて、音を出す練習を少しだけした。 だが、そうした「今までとは異なった行動」はその時限り、ほんの数分で、「やっぱり吐き気がする」と言って、終わりになった。今の息子の不安は、「勉強の遅れ」が最大のものだそうだ。 それ以外にも、「2ヶ月半ほど休んでいて、急に登校して、周囲にどう思われるか」という不安もあるようだ。 突破口が見つからないまま、6月、7月と休んでいると、息子はますます勉強の遅れや周囲の目が気になり、登校のチャンスを見出せないままだろう。 私はカウンセラーの先生と相談を週1回しながらも、「どうしたらいいんだろう」の堂々巡りに陥ってしまう。 バイオリンは、息子は既に「もう興味がなくなった」と言った。私はそれを残念に思ったが、彼の頭の中は、「登校できるのか、勉強についていけるのか」という不安が渦巻いているのだろう。 やり切れない思いを抱いて、毎日息子の様子を見ながら、私は私で気晴らしのため、バイオリンやピアノを弾いている。 そんな中でも、世間では恐ろしい事件に巻き込まれる高校生たちがいる。子供が不登校の状態で、不安でいっぱいの私だが、子供の異変に親というのは、こんなにも苦しむのだ。 だからこそ、事件の犠牲になった少女たちの親の心情は、いかほどか。きっと、想像を絶する苦悶と哀しみと無念、悔しさで、それこそ生きているのも辛いほどだろうと思い、とても他人事とは感じられないのである。