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カテゴリ:歴史学習
秦郁彦・編 昭和史20の争点(文春文庫)より 7.ハル・ノートーは開戦通告だったのか 須藤眞志 要旨まとめ 「ハル・ノートが日米戦争の引き金となった」「ハル・ノートが真珠湾攻撃に踏み切ったきっかけ」「ハル・ノートはアメリカからの最後通牒」「ハル・ノートは日本に戦争を仕掛けさせるための陰謀的な挑発」かどうか 「ハル・ノート悪人説」の原点は次の3点 1.東郷茂徳外相の回顧録「時代の一面」に出てくる言葉 2.インドのパル判事が東京裁判での意見書で引用した言葉 3.スチムソン陸軍長官の日記の中に見える「この覚え書きをもって日米戦争を決意したというハル長官自身の言葉」 1.について 1941年12月1日の御前会議で東郷はハル・ノートについて詳しく説明 実際は「中国および仏印から一切の軍隊・警察を撤収すること」「重慶政府(蒋介石政府)のみの承認」「日独伊三国同盟を太平洋地域に適用しないこと」を 「満州国の放棄」「南京政府(汪精衛政府)の否認」「日独伊三国同盟の否認」と解釈。 「撤兵を要求されている"China"に満州を含まれていると判断」 2.について 「真珠湾攻撃の直前に米国政府が日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国にたいして矛をとって経ちあがったであろう」はブレークニー弁護人が東京裁判で述べた言葉を、パルがそのまま引用したもの。 3.について そもそもは、1941年11月26日にハルがスチムソン陸軍長官に電話をかけた際のハルの発言。 「私はこのことから手を洗った。あとはあなたとノックス、陸海軍の手中にある」 (スチムソン日記の中にある言葉) この時点ではアメリカの軍当局者(誰だろう?)は、対日戦の準備が充分に整っていないとハルに伝えている。 一方、ハルは用意していた暫定協定案を手交しなかった。→何故か 一方ハル・ノートには最恵国待遇による通商条約、資産凍結の廃止、円弗為替の安定などの項目も含まれている。 対米戦争をどの時点で日本が決意したか -公式には1941年11月5日の御前会議 「同年12月1日までに、もし甲案・乙案で妥結しなければ、対米戦争をすることに決定していた」 真珠湾に向かう機動部隊が単冠湾を出航したのは1941年11月26日の午前6時 ハル・ノートが野村大使に手渡されたのは日本時間の11月27日午前7時頃。 ハル・ノートを論議した12月1日の御前会議で交渉打切りを決断し、翌日山本五十六は「ニイタカヤマノボレ1208」を打電した。 つまり、ハル・ノートが機動部隊の引き返す機会を失わせ、真珠湾攻撃を予定通り決行させた切っ掛けとなったことは事実である。 しかし日本側はハル・ノートによってアメリカ側が日本の最終案を拒否されたので予定通り攻撃命令を下したのであり、ハル・ノートの内容が過酷であったのでやむなく攻撃命令を出したのではない。 結局、ハル・ノートが来ても来なくても真珠湾攻撃は行われ、日米は開戦したのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年07月02日 13時02分52秒
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