適切に傲慢である為に必要なのは自覚とユーモア。
何度も言っているかも知れないが、わたしはあまり謙虚な人間ではない。謙虚であろうという努力はしているつもりだが、謙虚でないことはわかっている既にかなり傲慢な人間である。謙虚な人には憧れる。立派だなあ、とよく思ったりもする。でもやはり自分が傲慢なので、傲慢な人には同胞意識を感じたりして、その傲慢な部分に結構好意を持ってしまったりもする。気持ちいい傲慢さ、というものはあると思う。傲慢というのは決していいイメージではないかも知れない。それでも傲慢でいられる、というのはある意味幸せなことであるが、ただ醜悪な傲慢と、やや適切な(笑)傲慢がある、と、わたしのなかでは明確な線引きがある。不快な傲慢とは、それが傲慢であるということを知らないこと、そして、その傲慢さにユーモアも愛嬌もないこと、ではないだろうか。そういう意味では、自覚とユーモアがあればやや適切かな?とか言ってる時点でもう不適切、という苦情があれば、もちろん慎んでお受けいたします(笑)。