残された道・・・
1986年4月26日 旧ソ連のチェルノブイリで原発事故が起こりそれからチェルノブイリという言葉は私の頭にインプットされたまだ高校に入りたての私であったが、原発事故がどれほど怖いものかを知っていたつもりではある。まして、原発をかかえる福島県民の私には関心高いものでもあったいつか同じ事が起きたらどうすればよいのだろうかと・・・俺が日本の敵国のドンであったなら必ず福島か福井の原発を狙うだろうと考えていたこともあったくらいだ戦争であれ何であれ原発が爆発した時は逃げなければとも・・・そして実際に原発事故は起こり、いまだに終息する気配さえない空からも海からも汚染は進み、農林水産業は誰が考えても壊滅状態「頑張ろう福島」と言っても頑張れない状況なのではないのだろうか農家の多い福島は第一次産業が衰退すれば第二次・第三次産業すら危うくなる国は基準値を上げ続け、「直ちに影響ない」「安心です」を連呼政府や東電によって大切な情報が隠され続けていることも普通なら気づく(ま、情報弱者が多い事も現実かもしれんが・・・)福島県民はわずかに残された道を選択の余地なく歩いていくしかないまた、チェルノブイリが世界的に有名になったように今後、日本の福島は世界の人々から原発事故の都市と頭にインプットされてしまうであろうさらに私が危惧することは世界はもとより国内でさえも福島県民への差別が始まるかもしれない「そんなことはないよ」と思ってくれるのは有難いことなのだが人間全てが温かい心をもっているわけではないのだ。例えば・・数年後、福島で育った子供との結婚をためらう他県の親も出ると思うあるホテルでは福島県民の宿泊禁止など、すでに始まっていることですし・・そんな福島県で育つ子供達に俺が塾屋として出来る事は今回の津波でいち早く高台に逃げることが出来た人間が助かったようにこれから来るであろう最悪な状況を生きぬくためにも子供達を学力的に高台に連れて行く事だと思うそこまで行ければ、あとは自分の力で生き抜いていけるしその子が多くの人々を助ける存在になるかもしれない俺も、最悪な状況になったとしても心だけは折れないようにせんとこの四十年、それだけは学んできたからな