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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
房総半島の南端にある千葉県館山市、東京湾を見下ろす城山の上に館山城があります。
館山城は戦国時代の房総の覇者、里見氏の最後の本拠地でありました。 本丸に立つ城跡碑には「里見城跡」と書かれており、遠い過去の栄光が偲ばれます。 現在は公園として整備が進み、城の遺構としては、登城道の途中に土塁や堀切の一部、そして曲輪の跡が見られる程度です。 館山城は標高80mほどの城山にあり、山頂には模擬天守が建てられています。 本丸周辺は地形の改変が激しく、現在は日本庭園などが造られていますが、本丸の裏手には曲輪と思われる曲輪の跡が残っていました。 柱石の跡があり、里見義康の御殿跡ではないかと言われています。 館山城は東京湾の入口にあり、山頂からは東京湾と館山湾が一望できました。 自衛隊の館山基地 東京湾越しに富士山も山頂をのぞかせています。 館山湾と館山市街地 夜の館山城にも訪れたことがあるのですが、こちらもまた違った雰囲気があってよかったです。 夜の航空自衛隊館山基地。 館山市街地の夜景 1590年に豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされると、関東には徳川家康が移ってきました。 房総を制覇していた里見氏でしたが、豊臣秀吉に小田原参陣の遅延を咎められ、上総を没収されて安房一国だけとなりました。 この時里見氏当主であった里見義康は、安房の館山城を改修して、本拠地を上総から移しています。 江戸時代に入ると、里見義康の跡を継いで、里見忠義第9代当主となりました。 しかしながら大久保忠隣の孫娘を正室に迎えていたため、大久保長安事件に連座したとして、大幅減封の上に伯耆国(鳥取)倉吉へ改易となっています。 豊臣秀吉にしても徳川家康にしても、何かと言いがかりをつけて、房総の覇者を封じ込めようとしたようです。 里見忠義は失意のうちに病死、跡継ぎがなかったため、里見氏はここで途絶えました。 この時里見忠義に殉死した八人の家臣の墓が、館山城の片隅にあります。 その横には「里見安房守忠義公殉死八遺臣」と書かれた墓碑が建っていました。 戒名にはいずれも「心」と「賢」の文字があるのが意味深いところです。 そしてこの八遺臣をモデルとしたのが、滝沢馬琴の大伝奇小説「南総里見八犬伝」です。 滝沢馬琴の20年にわたる力作によって、再び里見氏の栄光は八犬士と共に世に送り出されました。 関連の記事 館山城(夜)→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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