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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
戦国時代の房総半島では、里見氏VS北条氏の2大勢力の争いが繰り広げられ、特に房総半島北部の諸将は里見氏についたり北条氏についたりしながら、戦々恐々と暮らしていました。
中には一族が二つに分かれ、同族の中で骨肉の争いを行っていた豪族もいたほどです。 その房総の争乱を紐解いて行くと、1人のお騒がせな男に行き当たります。 それが足利将軍の流れを汲む足利義明で、自ら「小弓公方」を名乗って小弓城を本拠地としていました。 その小弓公方の小弓城は、上総との国境に近い千葉市の南部の丘陵上にあったとされ、現在は千葉市埋蔵文化財調査センターが小弓城跡の一角に建っています。 埋蔵文化財センターで小弓城の場所を尋ねると、わかりやすい手書きの地図で場所を教えてくれました。 (せっかくなので埋蔵文化財センターも見学させてもらいましたが、基本的に縄文~弥生時代の話です) 埋蔵文化財センターからは細く曲がった道が続いており、ところどころ城の遺構と思われるものが残っていました。 この道にしても堀切の跡だったのかも知れませんが、周囲には土塁と思われる跡が残っています。 こちらも土塁の跡だと思いますが、手前の白い小屋は実は犬小屋で、土塁に近づいた途端に一斉に吠えられました。 この道も元々は空堀と土塁だったのかも知れません。 さすがは小弓公方の本拠地だけあって、かなりの規模の城郭だったようです。 しかしながら本丸付近には畑が広がっているだけで、本丸そのものは墓地に変わっていました。 城跡碑の後ろには卒塔婆が建っています。(恐れ多い…) 当時は房総半島北部の平野がよく見渡せたことかと思います。 上総との国境に近いこともあり、足利義明が房総支配の野望を抱くようになったのもわかるような気がします。 元々小弓城は亥鼻城(千葉城)の支城として築城され、千葉氏の重臣である原氏が入城していました。 原氏は主家である千葉氏を凌ぐほどの実力を持ち、上総の有力者である真里谷(まりやつ)城の真里谷武田氏を圧倒し続けました。 原氏に対抗するために武田氏は房総の諸将を結集しましたが、その総大将に担ぎあげたのが、古河公方足利政氏の次男である足利義明でした。 1517年、足利義明を総大将とする里見氏・真里谷武田氏などの房総連合軍は、原氏の小弓城を攻略、ついに小弓城は落城して原氏は滅亡しています。 (ちなみにこの時小弓城にいたのが原虎胤で、落ち延びた後に甲斐武田氏の重臣となって、「武田二十四将」にも数えられています) 原氏亡き後、「小弓公方」を名乗った足利義明は、真里谷武田氏の相続争いに介入したり、自分の実家である古河公方と対立したりと、房総半島支配へと動いて行きました。 その足利義明の進攻に対抗すべく、古河公方などが頼った先が小田原の北条氏です。 そして1538年、里見義堯などの房総連合軍は、足利義明を総大将として、北条氏綱・北条氏康の北条軍と国府台で激突、第一次国府台合戦が勃発しました。 結果は総大将の足利義明自らが単騎で敵陣に斬り込み、挙句の果てには討死という、あっけない幕切れで終わっています。 その後の下総は、足利義明の後に台頭してきた里見氏と小田原北条氏の勢力争いの最前線となり、下総の諸将もこの戦乱に巻き込まれる結果となっています。 足利義明は、房総半島を引っかき回しただけのような存在ですが、その震源地こそがこの小弓城でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 07:01:09 AM
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