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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
小弓公方の本拠地であった小弓城から、北西へ約1.5Km行ったところに生実(おゆみ)城があります。
「小弓城」も「生実城」も読み方は同じなので、区別するためこちらの「生実城」を「北小弓城」とも呼ぶようです。 江戸時代に入ってからは生実藩の藩庁が置かれ、代々森川氏が藩主となっていました。 城内には森川氏の菩提寺である「重俊院」が建てられています。 重俊院 境内には森川氏代々の墓所もありました。 本丸は重俊院の北東方向にあったようなのですが、地形の改変が激しく、完全に住宅地に変わっていました。 本丸付近 道路が不自然に曲がっていたりして、何らかの遺構はあったように思われます。 生実城内には生実神社があり、戦国時代の末期に原氏によって創建されたと言われています。 生実神社 神社の境内を見て回ると、わずかに土塁の跡が残っていました。 土塁跡 さらに土塁の横には見事な空堀が残っていました。 空堀跡 明らかにそれとわかるほどの大きさですが、こうして見ると、江戸時代の陣屋跡というより、戦国城郭の名残があります。 さらに生実神社から東へ行ってみると、大手口の跡があり、わすかに土塁の跡も残っていました。 本丸跡からは500mほど離れた場所にあり、大手口の位置からすると、陣屋にしては相当な規模だったと思われます。 大手口からみた本丸方向 生実城は、現在地から南にあった小弓城から移転されたものです。 戦国城郭である小弓城は、千葉氏の重臣であった原氏の拠点だったのですが、足利義明が小弓城攻略し、小弓公方を名乗って本拠地としていました。 1538年に小弓公方足利義明が国府台合戦で討死すると、元々の小弓城主であった原氏が再度入城しています。 原氏は小弓城の北西に新たに城を築きますが、それがこちらの生実城(北小弓城)です。 その後は原氏と里見氏の間で攻防戦が繰り広げられしたが、1590年に徳川家康の家臣である酒井家次に攻略されるまで、生実城は代々原氏の居城として続いていました。 江戸時代に入った1627年には、森川重俊が生実藩の藩主となって、生実藩の陣屋が置かれています。 生実池から見た本丸(陣屋)付近 平和な江戸時代にあっては、風雅な場所だったのかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 07:00:34 AM
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