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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
国立歴史民俗博物館のある佐倉城は江戸時代になって造られた近世城郭ですが、本佐倉城は千葉氏の本拠地となっていた戦国城郭です。
一見するとシンプルな縄張りなのですが、実際にはやや複雑で難解な縄張りでした。 普通に考えると東山馬場を大手と見るべきでしょうか。 東山馬場から見た本佐倉城 丘陵の麓に行くにしたがって曲輪が広がっており、いかにも大手口のような感じですが、実はこちらは大手ではないようです。 本佐倉城の大手口は北側の東光寺ビョウの方にあり、丘陵をめぐって北側にまわってみました。 (別にどこから登城してもいいのですが、ここはやはり大手から) 東光寺ビョウ方面から見た本佐倉城の遠景。 何やらよからぬことが書かれた看板があります。 実はヘビが大の苦手なのですが、ここに至ってそうも言ってられないので、城郭の方へと向かっていきました。 本佐倉城については発掘調査が行われており、現在調査結果を確認中だそうです。 東光寺ビョウがどのような用途だったのか、いずれ明らかになることでしょう。 東光寺ビョウの曲輪 曲輪の名前からすると、寺院が置かれていたのでしょうか。 (大手口に寺院があったとしたら不思議な縄張りですが) 東光寺ビョウから東山馬場に通じる間は切通になっており、ここに大手虎口があったようです。 見事に横矢が掛かっています。 本佐倉城の曲輪は、最も低いところにある東山馬場から、最も高い城山まで曲輪が連なっています。 ちょうどUターンをするように曲輪が連なっており、曲輪と曲輪の行き来が容易にできるような縄張りになっていました。 利便性を求めるとこうなるのでしょうが、それだけに防衛拠点としては手薄な感じがします。 東山馬場のすぐ上の曲輪 千葉氏の家紋である月星紋が輝かしい。 第五郭に相当する東山馬場と第四郭の間は、特に空堀がめぐらされているわけでもなく、段々畑のように曲輪が連なっているだけでした。 現地にある解説をよく見てみると、各曲輪間は堀底道で通じていたようです。 さらには発掘調査の結果、堀底道には門があって、曲輪は塀で囲まれていたようです。 左側が本丸のある「城山」で、右側に第四郭の曲輪があります。 戦国城郭にしては防御が手薄だと思っていたのですが、どうやら近世城郭に近いのかも知れません。 第四郭からは、三の丸に相当する「倉跡」へとつながっていました。 その名の通り倉庫群が建っていたようで、発掘調査の結果では掘立式の建物群が曲輪の広範囲にわたって並んでいたことがわかっています。 倉跡。 さすがに倉跡の向こう側には空堀がめぐらされていました。 三の丸である倉跡からは、Uターンするような格好で、二の丸に相当する「奥の山」、さらには本丸に相当する「城山」の曲輪へとつながっていきます。 奥ノ山 ここには千葉氏の守護神である妙見宮があったそうです。 奥ノ山(二の丸)と城山(本丸)の間には大きな堀切があり、堀底道を通って第四郭からも本丸に行けるような形になっていました。 奥ノ山と城山の間の堀切。 さすがにこの辺りになると戦国城郭の様相を呈しています。 堀切から城山に至る虎口。 複雑に横矢が掛かっていて、なんとも念の入ったことです。 本丸である城山の曲輪 周りは土塁で囲まれており、土塁の跡もはっきりと残っています。 さすがに本丸付近は戦国城郭の雰囲気がありましたが、第四郭から下は戦国末期になって改変されたのかも知れません。 関東の応仁の乱とも言うべき1454年の「享徳の乱」により、千葉氏も一族が分かれて争うこととなりました。 亥鼻城(千葉城)に本拠地を置いていた千葉氏は、一族の馬加康胤(馬加城主)や原胤房(小弓城主)に攻められ、千葉氏本流の千葉胤直と千葉胤宣の親子が自害して、千葉氏宗家は滅亡しています。 この時馬加康胤は千葉氏を名乗り、康胤の孫である千葉輔胤の時、本拠地を亥鼻城から移すために築城したのが本佐倉城です。 本佐倉城にはマスコットキャラクターがあり、なぜか千葉勝胤がモデルとなっていました。 勝っタネくん。。。 千葉勝胤の時代には小田原北条氏方についていたのですが、八王子城の北条氏照とは時代が違うため、「うじてるくん」とのツーショットはなかったようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 06:58:54 AM
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