|
テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(佐賀・長崎編)
日本史の教科書などでは「平戸のオランダ商館を出島に移して、貿易港を長崎のみとした」とあるので、これまで平戸と出島はすぐ近くにあると思っていました。
実は出島のある長崎市から平戸市までは道のりで約100kmもあり、さらには平戸が島になっていることも初めて知りました。 それでも平戸大橋を渡るとすぐに平戸市内に入り、海岸沿いには瀟洒なオランダ商館が復元されていました。 1639年に築造された倉庫を復元したものです。 オランダ商館から見た平戸大橋 平戸は入り江の奥まった場所にあり、オランダ商館から見た入り江の向かい側には、平戸城の天守と櫓がこちらを見下ろしていました。 そもそも平戸に来たのはこちらがメインでした。 平戸にオランダ商館が建てられたのは1609年のことで、オランダ東インド会社の日本における拠点となりました。 「東インド会社遣日使節紀行」に描かれたオランダ商館図 1649年にアムステルダムで刊行された中の描写に、彩色を施したものです。 1640年に幕府の命令によって取り壊され、1641年に長崎の出島に移されていますが、平戸の時代は往来も出入りも自由だったようです。 当時の室内の復元 ところで当時の日本でなじみの深いオランダ人に、ヤン=ヨーステンがいます。 1600年にオランダ船のリーフデ号で日本に漂着した後、江戸のヤン=ヨーステンの居宅があった場所は、その名前に由来して「八重洲」となっています。 オランダ商館内にあるリーフデ号の模型 また、同じリーフデ号にはイギリス人船員であるウィリアム・アダムスがおり、後の三浦按針です。 京急線の按針塚の駅名からも、三浦按針は横須賀と関わりが深いのかと思っていたら、晩年は平戸に住んでいたようで、平戸には三浦按針の居宅跡と墓所がありました。 徳川家康に重用された三浦按針でしたが、徳川家康亡き後は追いやられるように平戸に移り、不遇な晩年を過ごしたようです。 ところでオランダ商館は出島に移る時に取り壊されましたが、現在でも遺構が一部残っていました。 オランダ井戸 オランダ商館は壁で囲まれていたようで、「オランダ塀」も残っていました。 海産物店に残るオランダ塀 平戸にオランダ商館が置かれた同じ頃、オランダ東インド会社は台湾にも進出していました。 オランダが台湾での本拠地にしていたのがFort Zeelandia(安平古堡)です。 わずかに残るオランダ塀に、ちょうど一年前に訪れたFort Zeelandiaの城壁を思い出しました。 台湾からオランダ人を追放し、民族の英雄とされるのが「国姓爺」の鄭成功ですが、鄭成功はここ平戸で生まれています。 台湾と平戸がオランダでつながるとは、感慨深い気もしました。 関連の記事 出島(長崎・長崎市)→こちら Fort Zeelamdia(台湾・台南市)→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[城跡と史跡(佐賀・長崎編)] カテゴリの最新記事
|