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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
菱川師宣記念館のすぐ南、内房海岸沿いに妙本寺があります。
特に目立つ看板が出ている訳でもなく、うっかりすると見落としそうな感じでした。 妙本寺の前に着くと、「大本山 妙本寺」と書かれた立派な門があり、さらに上に階段が続いています。 階段を上がって見ると、右手に客殿と奥に本堂と思われる建物があるだけで、意外とひっそりとした佇まいでした。 客殿 妙本寺は室町時代の初期に日郷によって開山された古刹で、足利尊氏によって寺領を安堵された記録もあります。 戦国時代になると里見氏との結びつきが強くなり、第14世住職であった日我上人は、里見氏第5代当主里見義堯の盟友でもあり、政治的なブレーンでもあったようです。 対岸の三浦半島から来襲する北条水軍の攻撃にさらされながらも、妙本寺は常に里見義堯と共にありました。 里見水軍にとっても妙本寺が房総防衛の拠点ともなり、その戦火によって伽藍が焼失してしまうほどの激しい攻防戦だったようです。 里見義堯と日我の親交と信頼関係を示すエピソードがあります。 里見義堯の永年の宿敵であった北条氏康が和睦を申し入れして来た時、北条氏康がその交渉相手に選んだのが日我でした。 北条氏康は何度も日我を通じて里見義堯に和睦を持ちかけますが、里見義堯は「いくら日我上人の説得であっても、これだけは応諾できない」と応え、日我は「自分が説得しても無理なので、和睦は不可能」と北条氏康に伝えたと言います。 里見義堯が妙本寺を訪れて、妙本寺住職である日我上人と初めて会ったのは1535年、里見義堯29才、日我28才の時です。 小説などでは、里見義堯が日我の妙本寺に立ち寄ったのは偶然のことであり、日我電撃的な出会いだとされています。 安房は日蓮上人の生誕地であり、妙本寺も同じく法華経の寺院でした。一方の里見義堯は曹洞宗と宗派は違うのですが、初対面での問答を通じて、里見義堯・日我の両人は意気投合し、以後40年間に渡って2人は親交を深めたとされています。 里見義堯が68才で生涯を閉じた時、宗派は違えども、日我は妙本寺において100日間の法要で経を唱え続け、里見義堯を弔ったそうです。 そして日我が里見義堯を偲んで詠んだ歌があります。 隔つとも 心の空に 照る月の 光は同じ 眺めなるらん 里見義堯と日我上人が見続けた同じ光とは、房総半島の平和と安泰だったのかも知れません。 妙本寺から見た浦賀水道 三浦半島は目と鼻の先です。 【中古】afb 里見義尭 北条の野望を打ち砕いた房総の勇 北条の野望を打ち砕いた房総の勇将 PHP文庫/小川由秋(著者) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/10/15 12:15:23 PM
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