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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
有力豪族が割拠しながらも、同時に里見氏VS北条氏の覇権争いの最前線でもあった戦国時代の上総国(房総半島北中部)、千葉県いすみ市の万木城もそんな上総の中にありました。
万木城遠景 現在は万木城城跡公園となっていますが、公園に続く道は細くて薄暗い上に人気がなく、とても怪しい雰囲気がありました。 ようやく曲輪の跡と思われる開けた場所に出ると、さらに怪しいことになっていました。 木々の間に「よくないもの」が見えています。 ずっと以前に「ブッシュマン」という映画があり、ヘリコプターからたまたま投げ捨てられたコーラのビンを見たブッシュマン(ニカウさん)が、これを「よくないもの」と言っていたことを思い出しましたので、ここでもニカウさんの言葉を借りて、「よくないもの」と呼ばせてもらいます。 全面舗装された本丸広場に来てみると、先ほどの「よくないもの」の様子がようやくわかってきました。 「よくないもの」であることに変わりはないのですが、これを模擬天守と呼んでいいのかどうかも悩ましいので、以下「望楼型展望台」と呼ぶことにします。 その望楼型展望台の手前、本丸の真ん中にある方形の盛土が気になるのですが、櫓台の跡か何かでしょうか。 それにしても戦国城郭にしてはやたらと本丸が広い印象があり、さらには曲輪の周囲に空堀や堀切の跡も見受けられませんでした。 「変わった縄張りだな~」と思いつつも、「防御がいささか手薄ではござるまいか」と、余計な心配までしてしまうほどです。 望楼型展望台も本丸から一段高くなった場所にあったのですが、その反対側にも一段高くなった切岸状の台地がありました。 空堀があるでもなく、いきなり土塁なので奇特な感じがします。 興味本位に切岸を登ってみると、まぎれもなく曲輪の跡のようでした。 後からわかったことですが、この辺りは粘土質で覆われているため、空堀や堀切を造るのは困難とのことで、この変わった縄張りにも納得しました。 それならば「そもそも、なぜここに城郭を造ったの?」と不思議に思うところですが、望楼型展望台に登ってみると、何となくそれもわかるような気がしました。 夷隅川が大きく湾曲しながら城郭の周囲を巡っており、さらには所々で蛇行しているので、天然の要害となっていました。 土壌の不利はあるにせよ、地形としては最適の場所かも知れません。 万木城からは久留里城もすぐ近くに見えるので、これには里見義堯も焦ったことだと思います。 (その経緯については後ほど) ついでに望楼型展望台の上からさらに眺めてみると、さすがに万木城の城郭の様子がよくわかりました。 本丸 櫓台だと思っていた盛土ですが、よく見てみると実は相撲の土俵でした。 土俵を見て櫓台だと勘違いする私も悪いのでしょうが、紛らわしいのでせめて城の本丸で相撲をとるのは勘弁してもらいたいところです。 搦め手方向 こちらに登城道がついており、すべり台やブランコがある児童公園も曲輪の跡だと思われます。 大手方向 駐車場も曲輪の跡だと思われますが、その先にも曲輪が連なっていたようです。 万木城を本拠地としていたのは土岐氏(上総土岐氏)で、美濃の名門土岐氏の一族です。 (ちなみに明智光秀や遠山の金さんも土岐氏の流れです) 土岐氏本家が斉藤道三によって奪われた時、その時の土岐氏の当主であった土岐頼芸は、一族である上総の土岐為頼の万木城に身を寄せていたこともありました。 さらには里見義堯の正室が土岐為頼の娘だったことからも、房総では一目置かれる存在だったと推察されます。 その土岐為頼ですが、表では里見氏に従いながら、裏では北条氏とも手を結ぶという、戦国の上総ならではの二面外交を展開していたようです。 それでも第二次国府台合戦で里見義弘が北条氏康に敗北すると、ついに土岐為頼も里見氏から離反して北条氏に従うようになり、今度は土岐氏と敵対することになった里見氏との間で激しい攻防戦が繰り広げられる結果となりました。 (里見義堯にしてみれば、目と鼻の先の同盟が寝返ったことになります) 里見氏の猛攻にも落城しなかった万木城でしたが、1590年の小田原の役においては、討伐軍として上総にやってきた本多忠勝の前についに落城しています。 (相手が本多忠勝なので、善戦したというより他に言葉がありません) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/01/19 10:34:57 PM
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