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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
大黒山展望台から見ると、安房勝山城のあった八幡山は、戦国城郭に最適な立地にあるように思います。
この稜線を見ると、ここに築城したくなるのも納得です。 勝山の北側には佐久間川が流れ、天然の水堀の役目をすると共に、背後は岩場の海岸線となっています。 佐久間川(河口付近) 大黒山展望台を後にすると、今度は八幡山を目指して海岸沿いを行くことにしました。 かつては里見水軍の拠点であった現在の勝浦漁港 対岸の北条水軍の来襲に備え、里見義堯は南房総沿岸の防衛強化を行うと共に、水軍力の強化に努めました。 かつての勝山港も、そんな里見水軍の基地の1つだったと思われます 実は7年ほど前にも八幡山を目指したことがあるのですが、その時は崩落の危険ありとのことで、立ち入り禁止となっていました。 安房勝山城の遠景 道順を尋ねがてら地元の人に聞いてみると、現在は登れるとのことです。 遊歩道と書かれた標識に従って行くと、両側にいきなり切岸が現れました。 岩盤の斜面を切岸状に削るのは、房総の戦国城郭に特有の築城術ですが、戦国城郭の遺構かどうかまではわかりませんでした。 (江戸時代の勝山藩の時のものかも知れません) さらに斜面を登って行くと、今度はもっと巨大な切岸が現れました。 人工的に掘削されたようにも見えますが、もしもこれが城郭の遺構ならば、相当強力な防護設備となります。 この大切岸から目を転じると、樹木で覆われた向こう側に腰曲輪のような削平地が見えていました。 画像にすると何が何だかわかりませんが、肉眼では確かに人工の削平地があります。 それにしても、この季節は落葉で城郭の遺構がはっきりとわかるはずなのですが、常葉樹に覆われた南房総についてはそのセオリーが当てはまりません。 大切岸の上部は広い削平地となっており、ここは曲輪の跡だと思われます。 咲き揃ったスイセンの花に、ここでも南房総の冬を感じました。 この曲輪からは西側の眺望が開けていて、浦賀水道の対岸にある三浦半島がよく見渡せます。 浦賀水道の交通量がいつになく少ないように感じたのですが、ちょうどNYK(日本郵船)のコンテナ船が中の瀬航路を北上していました。 遠目にコンテナを見る限りでは、40フィートコンテナだと思うのですが、積荷も少ないように見えます。 北アメリカ西海岸の港湾ストの影響は、まだまだ続くのでしょうか。 曲輪から眼下に目を向けると、勝山港に出入りする船舶の様子がはっきりと見えました。 対岸は三浦半島、かつての不審船であった北条水軍のスパイ船についても、その動きが逐一見えたことでしょう。 曲輪の先には鳥居があって、さらに道が続いていました。 先に続く道を登っていると、途中にタヌキのような小動物が現れ、こちらを警戒して振り返りながら、藪の中へ消えて行きました。 茶色い動物だったのですが、顔は白くて目の周りが黒く、さらに太い尻尾に縞模様があったのを覚えています。 ほんの少しの時間のことで、さらには呆然としていたので撮影はできませんでしたが、「ラスカル??」 不思議に思って後で調べてみたのですが、私が見たのはまさにこれでした。 なぜ南房総の勝山にアライグマがいるのか、全く意味不明です。 その先には物見台のような削平地があって、小さな社殿があったのですが、もはや城跡探訪どころではありませんでした。 安房勝山城は、この辺りの豪族で曲亭馬琴の南総里見八犬伝にも登場する安西氏の築城だとされています。 源頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房に逃れて来た時、安西氏が砦を築いたのが始まりとされていますから、平安時代から何らかの城跡があったことになります。 安西氏は「安房の西」に由来し、対岸の三浦氏とは友好関係にあったようです。 戦国時代になると里見氏の支配下となり、勝山城は対岸の北条氏に対する重要拠点として機能していました。 (まさかのアライグマの出現に、城の歴史も吹っ飛んでいます) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015/01/19 10:18:28 PM
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