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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
意外にも江戸時代の東京湾には鯨が入ってきたようで、鋸南町の勝山地区は「関東唯一の捕鯨史跡の里」と呼ばれています。
かつては鯨の通り道であった浮島付近(大黒山展望台より) いさなとる 安房の浜辺は魚偏に 京といふ字の 都なるらん 江戸時代の1805年に太田蜀山人が詠んだ歌で、「いさな」は勇魚と書くのですが、クジラ(すなわち魚へんに京)の意味だそうです。 江戸時代の勝山では「鯨組」の組織で捕鯨を行い、里見水軍の血を引く3組57船500人の大組織だったようです。 鯨組の統率は代々「醍醐新兵衛」を名乗り、大黒山の中腹には初代醍醐新兵衛の墓所がありました。 初代醍醐新兵衛は、日蓮上人や伊能忠敬と並んで、千葉県8聖人に数えられています。 醍醐家の菩提寺である妙典寺 醍醐新兵衛率いる勝山の捕鯨は、統制された組織で大掛かりに行われていたことがうかがえます。 遥か洲崎(館山)に見張りを置き、クジラが東京湾に入って来ると、勝山までは烽火で知らせていました。 戦国時代に安房勝山城のあった八幡山は山見方と呼ばれ、館山の烽火を発見すると山見方より烽火やホラ貝で鯨組の船団に合図を送ったと言います。 八幡山(山見方)から見た勝山港 八幡山の北側にある大黒山山頂には魚見台があり、ここから沖の船団に旗で合図を送っていました。 かつての魚見台跡には、怪しげな建造物が建っていますが。 戦国時代の房総半島南部では、沿岸警備のために里見義堯が強力な里見水軍を組織化しました。 対岸の三浦半島に拠点を置く北条水軍を退け、浦賀水道の制海権を有するまでになった里見水軍ですが、残念ながら江戸時代初期に里見氏とともに歴史の幕を閉じました。 それでも勝山の捕鯨史跡を訪ねてみると、その1世紀後になっても、里見水軍の歴史が受け継がれているような気がします。 烽火での連携や、クジラを追う操船技術など、まさに安房の沿岸警備隊のスピリットでしょうか。 大黒山山頂から見た東京湾 潮流はもとより、海底の地形まで熟知していなければ、到底及ばない芸当だと思います。 上がったクジラは、食用のみならず燃料や肥料などの余すところなく使われていたようで、可知山神社には鯨の供養碑である「鯨塚」が建てられていました。 意外な東京湾の捕鯨史跡に出会い、何となく散策してみた安房勝山でしたが、今も漁師町らしい雰囲気が随所に見られます。 いさな通り こういう街並みにノスタルジーを感じるのですが、ふと子供の頃に少し住んでいた瀬戸内海を思い出しました。 かつての瀬戸内海には村上水軍、浦賀水道には里見水軍と、何となくかぶる部分があります。 そうなるとサカナを食べたくなるのですが、勝山漁港には漁協直営の食堂「なぶら」があります。 (釣りをする人間にとっては、ネーミングに魅かれてしまうのですが) 勝山漁港では朝・夕と2回のセリが行われるそうで、今回は朝獲れの方にしてみました。 どうもこの日はあまり上がらなかったようで。 その日によって変わるメニューもあるのですが、時には鯨料理も出るようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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