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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
里見義弘が北条氏政を迎え撃った三船山の戦いは、里見義弘にとってはまさに乾坤一擲の戦いだったかも知れません。
千葉県君津市と富津市にまたがる三舟山の遠景 1563年の第二次国府台合戦で、里見義弘(房総連合軍)が北条氏政に敗北を喫すると、房総各地の豪族の離反を招くこととなりました。 特に正木時忠や土岐為頼などの離反が痛手で、それによって房総防衛ラインが崩されると、里見氏は上総の大半を失う結果となっています。 そしてついに北条氏政は里見義弘の佐貫城を攻略すべく、水陸両軍を率いて上総へと進出、三船山で激戦が繰り広げられました。 その三船山の山頂部を目指して、北条軍と同じ北側から登り始めました。 この季節の房総半島らしく、ここでも道の周りににスイセンが咲いています。 戦国時代の房総に思いを馳せていると、道の途中に意外な看板がありしました。 八重の桜は時々観ていたくらいなので、どのシーンだったのか見当もつきません。 房総の命運を賭けた古戦場も、現在はハイキングコースが整備されていて、割と楽に山頂にたどり着くことができました。 山頂部には展望台があり、東京湾と対岸の横須賀を見渡すことができます。 山頂部には平坦な土地が延々と広がり、砦というより本丸から三の丸が入ってしまうほどの広さがありました。 三舟山に陣取った北条軍は1万人とも言われていますが、そんな大軍が駐留するには十分すぎるほどの広さです。 北条軍の総大将、北条氏政が本陣を置いていた北側山麓 とにかく山頂部は平坦で、城郭を築くにはむしろ不向きかも知れません。 唯一の起伏、土塁のような盛土が目立ちすぎるほど、平らな土地が広がっていました。 戦死者を弔う塚だとも言われています。 そんな広大な山頂部の片隅には、過去の激戦を物語る碑がひっそりと建っていました。 1567年の三船山の戦いは、北条氏政にとっては房総制圧のまたとない好機だったと思われます。 北条氏照(氏政の弟)が別働隊を率いて、里見義堯(義弘の父)のいる久留里城へ進攻し、さらに北条綱成が水軍を率いて東京湾から進攻するという、まさに総力戦でした。 一方、佐貫城の里見義弘軍は2,500人しかいませんが、籠城することなく果敢に討って出て、北条氏政のいる三船山近くまで進出してきました。 里見義弘が佐貫城を出てくると、北条軍は三船山を降りて里見軍に攻めかかりました。 しかしながら北条軍が攻め寄せると、里見軍は逃げるように退却して行きました。 「国府台の敗戦で里見は怖気づいている」と見た北条軍は、逃げる里見軍をさらに追撃していきました。 実はこれが里見義弘の作戦で、三船山の周囲にある「障子谷」という沼地に北条軍を誘い込むのが目的でした。 障子谷付近 霧が立ち込める中、北条軍は沼地に足をとられ、次々と里見軍に討たれていきました。 里見義堯・義弘にしてみれば、国府台での北条軍の攻め方を逆手にとって、溜飲を下げたことかも知れません。 さらに里見義弘は、正木憲時の別働隊を、北条軍の背後にある八幡山から攻め込ませました。 背後も襲われた北条軍は、続々と沼地へとはまって討たれていきました。 この「三船山の戦い」で北条軍は敗走、里見義弘は再び上総と下総を奪還しました。 一方の北条氏康・氏政にとっては、唯一領土の縮小を伴う敗北であったと言われています。
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最終更新日
2015/02/08 07:34:02 PM
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