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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
江戸日本橋を起点とする五街道の1つである甲州街道は、江戸城に有事のあった際、幕府の天領である甲府城へ将軍が脱出するために造られたとも言われています。
現在では国道20号線となって、江戸日本橋から桜田濠沿いに通り、半蔵門から西へと向かうのですが、今回は日本橋から半蔵門の間を省略して、半蔵門前から旧甲州街道を歩いてみることにしました。 半蔵門は大手門の反対側にあり、江戸城の搦め手にあたります。 搦め手の脱出路である甲州街道沿いに服部正成(服部半蔵)の屋敷があり、与力20騎・伊賀同心200人から成る組屋敷が、甲州街道を固めていました。 半蔵門 この先は皇居なので、門の中に入ることができません。 服部半蔵の組屋敷のあった甲州街道一帯は、現在の麹町になっています。 歌川広重の名所江戸百景では「糀町」と書かれていますが、糀町(麹町)の由来については、諸説あるようです。 「小路」が多かったためとか、幕府の麹御用である麹屋があったためとも言われていますが、武蔵府中に通じる国府街道の出入口にあるため、国府路(こうじ)から来たとする説が有力なようです。 歩道に植えられた松が、わずかに旧街道の跡を物語っている気がします。 休日とあって閑散とした国道20号線を歩いていると、ほどなくして四谷にやってきました。 かつては江戸城の外堀があり、四谷見附の門があった場所です。 四谷見附の桝形石垣跡 かつての外堀跡 現在はJR総武・中央線と東京メトロ丸ノ内線が通っており、この先市ヶ谷から飯田橋の間には、今も水堀が残っています。 現在の四谷見附交差点 四谷見附の交差点を過ぎたあたりからは、旧街道沿いに寺院が見られるようになり、かつての寺町であったことがうかがえます。 別名「笹寺」と呼ばれる長善寺 長善寺の開山は江戸時代の元禄年間とされていますが、元々の歴史は古く、武田四天王の一人、高坂昌信(弾正)の庵があったそうです。 そして四谷と言えば「四谷怪談」、街道から南に行った田宮家屋敷跡には、田宮於岩を祀った「四谷於岩稲荷田宮神社」があります。 旧甲州街道(国道20号線には「お岩水かけ観音」が祀られていました。 1697年、日本橋と高井戸宿の間に新しい宿場を作りたいという願いが幕府に出され、信濃国高遠藩の内藤家の屋敷の一部を使って作られたのが内藤新宿です。 江戸時代の内藤新宿の宿場町では、入り口に木戸の門が設けられ「四谷大木戸」と呼ばれていました。 四谷大木戸と甲州街道(江戸東京博物館にて) 名所江戸図絵に描かれた四谷大木戸 かつて四谷大木戸のあった四谷四丁目交差点 玉川庄右衛門と清右衛門の玉川兄弟が、羽村から引いた玉川上水の終点も四谷大木戸で、江戸時代には水番所が置かれていたそうです。 かつての水番所があった場所は、東京都水道局の新宿営業所となり、玉川兄弟の功績を称えた「水道碑(いしぶみ)記」と、出土した玉川上水の石樋で作られた「四谷大木戸跡」が建っていました。 他の街道宿場町と同じく、内藤新宿でも江戸に近い方から順に、上町・仲町・下町の地名があったそうです。 現在では上町・仲町・下町の地名はありませんが、新宿一丁目・二丁目・三丁目が旧町名を踏襲しています。 かつての「上町」、新宿一丁目付近 宿場町の中心「仲町」のあった、新宿二丁目付近 歌川広重「東海道五十三次 四谷内藤新宿 内藤新宿は、1718年から約50年の間、廃止されていた時期がありました。 甲州街道は交通量が少ないと言うのが理由ですが、徳川吉宗の享保の改革の中、風紀取り締まりのために廃止されたとも言われています。 1772年に再開された後は再び繁栄を取り戻し、江戸の中では東海道品川宿に次ぐ賑わいだったようです。 歌川広重「名所江戸百景 玉川堤の花」 現在の新宿御苑付近です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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