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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(岐阜・三重編)
金華山の山麓から山頂への登城道はいくつかあり、かつても登城道として使われていた道です。
山麓の織田信長居館が岐阜城ならば、金華山は戦国時代の斎藤道三の稲葉山城でしょうか。 登城道には砦などの遺構が残っているようなのですが、今回は登城道ではなく文明の利器、ロープウェーで金華山山頂を目指しました。 ロープウェーの駅から山頂までの間にも、戦国の稲葉山城や岐阜城の遺構が残っています。 天下第一の門 織田信長の偉業を称えて、後世になって建てられたものです。 実際の門は少し先にあったようで、虎口の跡が残っていました。 一ノ門跡 登城道の途中には、この城の歴代城主たちの解説板が並んでいました。 岐阜城と言えば織田信長ですが、やはり稲葉山城と言えば斎藤道三でしょうか。 織田信長夫人の濃姫は斎藤道三の娘であり、織田信長にとって斎藤道三は義父にあたります。 濃姫が織田信長に嫁ぐにあたり、父斎藤道三は「夫の寝首を掻いてこい」と命じたとか。 登城道の途中には、かつての稲葉山城を偲ばせる戦国城郭の遺構がありました。 馬場の曲輪跡 堀切跡 本丸直下、登城道の裏手には戦国時代の井戸があり、今も水を湛えていました。 織田信長の父である織田信秀は、斎藤道三の稲葉山城を攻めたものの、大敗に終わっています。 織田信長の時代にあって、斎藤道三の孫である斎藤龍興の稲葉山城を攻めましたが、失敗に終わりました。 そして1567年の稲葉山城の戦いでついに落城させましたが、この時に功を上げたのが木下藤吉郎、後の豊臣秀吉です。 木下藤吉郎は僅か7名で稲葉山城に潜入し、薪小屋に火を放って手柄を上げました。 この時に腰に付けていた瓢箪が後の馬印となり、岐阜城の登城道脇は「千成瓢箪発祥の地」とされています。 千成瓢箪発祥の地 金華山の山頂へ続く登城道には、さらに二ノ門がありました。 二ノ門 斎藤道三と織田信長が並び評されるあたり、まさに天下の城かも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/10/29 11:35:15 AM
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