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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(岐阜・三重編)
金華山の稜線に沿って登城道を行くと、岐阜城の天守が見えてきました。
1956年(昭和31年)に鉄筋コンクリートで建てられた模擬天守です。 金華山山麓にあった織田信長の居館「千畳敷」には三層四階建ての天守が建っていたようですが、山頂の天守については詳細がわかっていません。 それでも天守台を見ると、野面積みの古い石積みとなっているため、何らかの建物はあったのかも知れません。 天守台 模擬天守の最上階に登ると、岐阜市内だけでなく濃尾平野が一望できました。 犬山城の方向 小牧山城の方向 長良川 その向こうには北アルプス連峰が見渡せました。 金華山の山頂から眺めていると、織田信長が「天下」を意識したのもわかるような気がします。 岐阜城の歴史は古く、13世紀の初めに鎌倉幕府の政所令であった二階堂行政が、ここに砦を築いたのが始まりと言われています。 二階堂氏の子孫はここを居城とし、稲葉氏と改称したことから、稲葉山城と呼ばれるようになりました。 そして稲葉山城と言えば「美濃のマムシ」斉藤道三、その斉藤道三が油売りから美濃一国を治めた話は「国盗り物語」などで有名ですが、前半生は道三の父である長井新左衛門尉の話であり、後半生が斉藤道三の話だと言われています。 斎藤道三像 斉藤道三は娘の濃姫を織田信長に嫁がせましたが、これは友好な結婚ではなく、まさに道三が尾張に送り込んだ刺客そのもので、道三は濃姫に「婿の寝首を掻いて来い」と命じたと言われています。 しかしながら斉藤道三と織田信長は互いに実力を認め合い、お互いを信頼するようになりました。 信長が最初に設けたとされる「楽市・楽座」も、すでに斉藤道三が城下町で行っていたものを信長が真似たと言われています。 また有名な桶狭間の戦いでも、信長は道三の戦法を参考にしたそうです。 しかしながら斉藤道三は、1557年に息子斉藤義龍に攻められ、討死してしまいました。 そして1567年、織田信長が義龍の息子である斉藤龍興を追放して、ついに稲葉山城を手に入れました。 信長は稲葉山城を岐阜城と改め、天下統一への第一歩を踏み出しています。 信長が「天下布武」の印を使い始めたのも、この岐阜城でした。 1592年には、豊臣秀吉が信長の孫である織田秀信城主としましたが、織田秀信は関ヶ原の戦いで西軍につき、福島正則に攻められて岐阜城も落城しました。 日本城郭協会「日本100名城」 国盗り物語(一~四) 合本版【電子書籍】[ 司馬遼太郎 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/10/31 07:12:51 PM
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