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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(新潟・富山・石川・福井編)
現在は高田公園として整備されている高田城跡に着くと、ちょうど「上越蓮まつり」が開催されており、かつての外堀では一面に蓮の花が咲いていました。
外堀(西堀) 春日山城をたっぷり見てきた後だったので、時刻は既に午後3時頃でした。 蓮の花は朝のうちしか咲かないようで、これだけ一面の蓮の花を見るのは初めてです。 高田城は本丸の周囲に内堀を巡らし、その外側に二の丸と三の丸を配して外堀を巡らせた、輪郭式の城郭だったようです。 高田城案内図 陸上競技場などがあってかなり広い公園設備ですが、輪郭式の縄張が残っているようでした。 三の丸跡 かつては土塁で囲まれた曲輪がたくさんあったようですが、現在は土塁も撤去されて、普通の都市公園といった風情です。 本丸の南側、大手の虎口には行ってみると、「極楽橋」が復元されていました。 極楽橋 平成14年に復元されたもので、当時の文献・資料・発掘調査により、なるべく忠実に復元されました。 但し、安全性・構造体力・法規制・維持管理の問題から、直接目に見えない基礎部分は鉄筋コンクリート製となっています。 大手付近の内堀 天下普請の城にしては珍しく、石垣を使わない総土塁造りになっています。 高田城の本丸には、旧帝国陸軍の第13師団の司令部が置かれていたので、土塁などの遺構は撤去されたそうです。 それでも本丸に入って見ると、土塁がよく残っていました。 本丸土塁 アスファルトで囲まれた一角に盛り土があり、「本丸跡」の碑がぽつんと建っていました。 この広い本丸広場で、かつ周りはアスファルトだと、この城跡碑だけが浮いて見えます。 かつての本丸には虎口が3ヶ所あり、極楽橋のある南側「本城御門」、東側に「東不明門」と北側に「北不明門」があったようです。 東不明門に通じる道があったので、行ってみることにしました。 東不明門に続く土塁 東不明門跡 なんのことはなく、普通に公園の入口です。 東不明門の近く、上越教育大学附属中学校のグランド脇には、赤レンガの門柱がありました。 旧帝国陸軍の遺構かも知れません。 高田城に天守はなかったものの、かつて本丸の南西隅には御三重櫓が建っていました。 現在は同じ場所に御三重櫓が復元されています。 御三重櫓(城内から見たところ) 平成5年(1993年)に完成した御三階櫓は、資料調査と発掘調査の結果を十分に踏まえて復元されたものです。 史実に基づかない模擬天守には否定的なのですが、天守に限らず、史実と調査に基づいた復元は大賛成です。 天守や石垣などあり得なかった時代の城跡に、総石垣造りの模擬天守を建ててしまう自治体などもありますが、後世に正しい歴史を伝えるためにも、上越市の姿勢には共感できます。 何よりもふるさとのランドマークとして残っていくことだと思います。 御三階櫓(城外から見たところ) 史実に基づいて、土塁の上に建っています。 高田城は総土塁の造りながら、天下普請で築城された近世城郭で、1614年に完成しました。 築城主は徳川家康の六男である松平忠輝で、築城の目的は加賀金沢の前田氏や、出羽米沢の上杉氏を抑えることと、佐渡の金山を支配することでした。 とかく天下普請では外様大名が駆り出され、その財政を圧迫させることも目的の1つですが、高田城の築城にあたっては、伊達政宗や上杉景勝などの外様大名が駆り出されていました。 伊達政宗は普請総裁として陣頭指揮を執っており、縄張は伊達政宗によるものです。 それにしても気の毒なのは上杉景勝で、自身の居城がある出羽米沢を抑えるための城普請に駆り出されるとは、胸中いかがなものだったでしょうか。 (しかも元の居城である春日山城のお膝元です) 日本城郭協会「続日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/08/20 02:41:22 PM
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