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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(奈良・和歌山編)
「大和三山」(耳成山・畝傍山・天香久山)の二等辺三角形の中心に位置するのが「史跡藤原宮跡」で、藤原京の中心部でありました。
大和三山と藤原宮跡の位置関係 藤原京そのものは碁盤目状の条坊制となっており、平城京よりも前に都城制を敷いた、日本で最初の首都です。 さらにその規模は南北に約5.3km、東西に約4.8kmと、平城京や平安京も凌ぐ面積がありました。 藤原京の全体図(現地解説板より) 南は飛鳥が入る大きさです。 その藤原京の中心部にある政治の中枢部が藤原宮で、現在は「藤原宮跡」として史跡に指定されています。 藤原宮の地図(現地解説板より) 大極殿跡と朝堂院閤門跡 大極殿跡 朝堂院閤門跡 朝堂院東門跡 朝堂院西門跡 朝堂院西門跡からは、大和三山の三角形の北の頂点である耳成山を望むことができます。 耳成山 藤原京の北の端は、あの耳成山のさらに北にあったことになります。 西の方に目を向けると、畝傍山には西日が傾いていました。 畝傍山 山麓には神武天皇陵である畝傍御陵があり、神武天皇を祀る橿原神宮が鎮座しています。 藤原京は持統天皇の694年に完成し、平城京に遷都する710年までの間、ここが日本の首都でした。 持統天皇は先帝であり夫でもある天武天皇の政策を継承し、藤原京を完成させると共に、701年には大宝律令を発令して、強力な中央集権化を推し進めました。 持統天皇には、強くて有能な女帝のイメージがあります。 政争に奔走していたであろう持統天皇が、藤原宮から詠んだ有名な歌があります。 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 大極殿から見た天香久山 ところで、藤原京の条坊でいうと「三条西二坊」、藤原宮から北西へ約1㎞のところに、自分には最もなじみの深い場所があります。 奈良県立畝傍高等学校正門 昭和8年建築の校舎は、今も現役のようでした。 本館北館(国登録有形文化財) 校舎正面には、太平洋戦争当時の機銃掃射の跡も残っています。 奈良の県立高校には学区制がなく、県内ではどの高校にも進学は可能です。 高校受験の時、奈良市内にある某県立高校の受験を断念して、橿原市にある畝傍高校を受験しました。 当時の実家からだと、奈良市と橿原市は方角的に正反対なのですが、両校の中間あたりに住んでいたので、距離的にはあまり変わりませんでした。 (学力的な差はありますが) 今思えば南都を擁する北の奈良市内に通うか、飛鳥を擁する南の橿原市内に通うかでは、その後の歴史観も違っていたように思います。 日本史の中でも特に古代史が身近な土地で、うれしいニュースがありました。 藤原宮跡が「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産として、ユネスコ世界文化遺産の暫定リストへの掲載が決まったそうです。 (恐れ多いことに、高校時代のクラス対抗のスポーツ大会の練習には、世界文化遺産候補の藤原宮跡を使ったりしていました) 藤原宮跡だけでなく、この構成資産はどれも貴重な史跡ばかりなので、ぜひ世界文化遺産に登録してもらいたいと思います。 奈良県ではすでに、「古都奈良の文化財」・「法隆寺地域の仏教建造物」がユネスコの世界文化遺産に指定されていますが、同じ奈良県でありながら「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」は、上の2つとは時代背景も違います。 もしも「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」が世界文化遺産に登録されたならば、より多くの人たちに古代日本史のロマンを知ってもらえると思っています。 また、世界文化遺産ではなくても、「国のまほろば」である三輪・纏向・山辺の道や、後醍醐天皇・楠木正成の南朝ゆかりの金剛・吉野(一部世界文化遺産登録)などなど、奈良にはまだまだ見どころは数多くあるので、ぜひ足を止めてゆっくり見て頂きたいとも思います。 とは言いつつも、自分も今になってそれに気付いた次第です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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