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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(奈良・和歌山編)
東大寺転害門から西へ約1㎞ほど行ったところ、大仏殿を見下ろす丘陵部にあるのが多聞城です。
多聞城は松永弾正久秀による築城で、城跡は奈良市立若草中学校の敷地になっています。 奈良市立若草中学校正門 縄張は判然としませんが、佐保川の流れる南側、若草中学校の入口が大手だったと思われます。 ここから先は中学校の敷地になるため、中に入ることはしませんでした。 それでも校庭の周囲を見回してみると、戦国城郭の土塁のような跡が残っています。 不自然に段差があって畝状になっていることから、城郭の遺構だと思われます。 多聞城の由来は、築城主である松永久秀が多聞天(毘沙門天)を信仰していたことに由来しています。 同じく松永久秀が築いた信貴山城も、やはり背後に毘沙門天を本尊として祀る朝護孫子寺があります。 多聞城の城郭遺構については、1565年に奈良を訪れた宣教師、ルイス・デ・アルメイダの記録が残っています。 現地の解説板によると、その時の記録として「瓦葺で白壁の障壁を備え、城内は障壁で飾られるなど豪華な造りであった」とあるそうです。 これは興味深い史料で、織田信長が安土城を築く10年以上前、すでに松永久秀がここに近世城郭を築いていたことになります。 その近世城郭では同じみの「多聞櫓」ですが、その名前は松永久秀が築いたこの多聞城に由来しています。 多聞櫓(2017年8月、伊予松山城にて) さらに多聞城には「四階櫓」が建てられており、これが後の天守のプロトタイプとされています。 残念ながら多聞城には当時の建造物は残っておらず、若草中学校建設の際も文化財保護法が制定されていなかったため、発掘調査も行われていません。 文化財保護の奈良において、多聞城より1000年近く前の建造物が現存していて、「最近の」多聞城の建造物が残っていないとは、何とも皮肉な話です。 それでも造成当時に出土した石塔などが、中学校敷地前の削平地に残っていました。 およそ中学校の校庭に似つかわしくなく、かつ無造作に放置されているようですが、文化財として保管されているのでしょうか。 出土した石塔の並ぶ場所も、かつての曲輪の跡だったと思われますが、土塁の法面のような場所もありました。 かつては石垣造りで、近世城郭の先駆けとなる貴重な遺構が存在していたと思われます。 多聞城は、築城年・築城主ともに明らかになっていて、1560年に松永弾正久秀によって築城されました。 「梟雄」として名高い松永久秀は、当時畿内の最大勢力であった三好長慶の祐筆だったとされています。 その松永久秀は三好家の中で頭角を現しましたが、三好長慶の没後は「三好三人衆」と対立するようになり、三好三人衆と同盟を結んだ同じ大和の筒井順慶とも敵対するようになりました。 そして1567年に三好三人衆が大和に侵攻すると、松永久秀・三好義継連合軍VS三好三人衆・筒井順慶連合軍の間で戦闘となり、「東大寺大仏殿の戦い」が勃発しました。 戦いは約半年間にわたり、三好三人衆は多聞城に近い東大寺に陣を置いていました。 1567年10月10日、松永久秀がその東大寺を襲撃すると、大仏殿が焼失して大仏の頭部も落ちてしまったそうです。 東大寺大仏殿(2018年10月) 大仏殿が再建されたのは、江戸時代に入ってからで、約250年後の1709年のことです。 東大寺津廬舎那仏座像(2018年10月) この出来事は「東大寺大仏殿焼討」として、松永久秀の「三悪事」の1つに数えられていますが、文献などによると三好三人衆の失火とみる説が有力のようです。 松永久秀の「三悪事」を挙げたのは織田信長でしたが、この三好三人衆との戦いにおいて、松永久秀を援護したのも織田信長でした。 一時は織田信長に恭順していた松永久秀でしたが、やがて織田信長にも反旗を翻し、織田信長軍に信貴山城を攻められて最期は自害して果てました。 達磨寺(奈良・王寺町)にある松永久秀墓所 現在は風化してしまっていますが、「松永弾正久秀墓 天正五年 十月十日」の文字があるそうです。 信貴山城が落城して松永久秀が自害したのは、東大寺大仏殿が焼失してからちょうど10年後、1577年のことでした。 さらには日付も同じ10月10日です。 松永久秀については、自分が育った地元の奈良でも評価が分かれるところです。 (奈良では松永久秀か、筒井順慶かの二者択一になるのでしょうが) 三好長慶の祐筆から身を起こし、戦国時代で織田信長にも一目置かれるほど名を馳せた大和の英雄とする見方もあります。 (そんな松永久秀ひいきは、「松永弾正」と呼ぶのでよくわかります) 一方で、南都に戦乱を招き、東大寺の大仏殿まで焼失させた「悪党」とする見方もあります。 (多くは筒井順慶ひいきの人で、高校の日本史の先生がそうでした) 自分は松永弾正と呼んで、松永久秀を評価しているのですが、1つだけ許しがたい悪事があります。 多聞城は聖武天皇・仁正皇后陵に続く東側の丘陵部にあり、この御陵上にも多聞城の曲輪が築かれていたようです。 強力なリーダーシップで、この国の礎を築いた聖武天皇の御陵があることは、さすがに松永久秀も知っていたことと思います。 大和支配の拠点として、その場所に城を築くとは、松永弾正おそるべしです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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