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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(奈良・和歌山編)
私がよく購読するPHP出版の雑誌「歴史街道」では、『「梟雄」と聞いて思い浮かべる歴史上の人物は? 』というアンケートのランキングがありました。
上位10位までが掲載され、 1位、斎藤道三 2位、織田信長 3位、松永久秀 4位以下は、宇喜多直家、北条早雲、豊臣秀吉、曹操孟徳、徳川家康、明智光秀、石田三成、と続きます。 「梟雄=下剋上で名を馳せた人物」と解釈するならば、個人的には、斎藤道三は文句なく1位だとしても、2位が松永久秀で、3位が北条早雲でしょうか。 (宇喜多直家も外せないところではありますが) その戦国時代の申し子のような松永久秀の築城によるのが、大阪と奈良の府県境にある信貴山城です。 朝護孫子寺の空鉢護法堂のある信貴山雄岳山頂に本丸があり、現在は空鉢護法堂の参詣道が信貴山城への登城道になっています。 空鉢護法堂参詣道への分岐点にある行者堂 参詣道の鳥居 子供の頃によくやっていた事ですが、鳥居の上に石を乗せるのは関西だけの風習なのでしょうか。 信貴山の稜線は南北に連なっており、城郭の縄張でいうと朝護孫子寺のある南側は信貴山城の搦手にあたります。 信貴山城の縄張図 九十九折が続く空鉢護法堂の参詣道 空鉢護法堂の参詣道を行く人は、手に手にやかんを持っていたのですが、下の水場で汲んだ水をお供えするそうです。 途中には四阿があって、その先にはようやく城郭の遺構らしきものが見えてきました。 斜面が人工的な切岸状になっていて、どこがどうと言うのはうまく説明できませんが、戦国城郭ではありがちな遺構だと思います。 尾根線にたどり着いたところで、土塁らしきものも見えてきました。 物見台の跡のようにも見えますが、よく考えれば信貴山雌岳の山頂部だったかも知れません。 (縄張図を見る限りでは、削平地があって城郭に使われていたようです) 朝護孫子寺の空鉢護法堂は信貴山雄岳山頂(標高437m)にあり、同時にここが信貴山城の本丸部分でもあります。 空鉢護法堂の鳥居 すでに視点が城跡ハンターになっているので、右手に土塁の跡が残っていると思うのは気のせいでしょうか。 ところで日本で最初の「天守」を上げたのは、織田信長の安土城だとされています。 「天守」という名前ではないものの、安土城以前に松永久秀が信貴山城に「高櫓」を建てており、天守のプロトタイプがここにありました。 本丸に建つ城跡碑 本丸からは大和平野の南側を見渡すことができ、信貴生駒山地とは山系が異なりますが、同じ府県境に連なる金剛葛城山地を望むことができました。 奈良に帰って来ると、訪れている史跡の時代を認識するのが一苦労ですが、信貴山城から約200年前にはあの金剛山の千早城で壮絶な籠城戦が展開されていました。 鎌倉幕府軍の大軍を相手に孤軍奮闘していたのが、当ブログのプロフィール画像にも使わせてもらっている楠木正成公です。 いま自分が立っている時代をよくよく考えてみると、朝護孫子寺の空鉢護法堂は10世紀の930年に命漣上人によって建立されました。 一方で、松永久秀がここに天守を建てたのは、16世紀も半ばの話です。 ということは、松永久秀は朝護孫子寺の空鉢護法堂に本丸を置いたことになり、やはり「梟雄」というしかないのでしょうか。 (松永久秀は、他にももっと恐れ多いところに城を築いており、それは後日紹介いたします) 朝護孫子寺の本尊は毘沙門天ですが、同じ毘沙門天を厚く信仰していた人がいました。 上杉謙信像(2018年8月 春日山城にて) 上杉謙信も松永久秀も同時代の人で、アンチ織田信長では一致しているかと思います。 信貴山城を攻め落としたのは織田信長でしたが、「なんで毘沙門天ばかり出てくるの?」といったところでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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