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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(奈良・和歌山編)
信貴山城は、朝護孫子寺の空鉢護法堂のある信貴山雄岳の山頂を本丸とし、北側の稜線上に曲輪を配した縄張となっています。
現地にある縄張図 朝護孫子寺のある南側が搦手で、北側が大手方向になるようです。 本丸直下の曲輪跡 北側の尾根筋を下って行くと、戦国城郭の塁や腰曲輪の遺構が残っていました。 土塁跡 腰曲輪跡 北側の稜線上には広く何段にも削平された曲輪があり、「松永屋敷」と呼ばれています。 松永屋敷 松永久秀の屋敷があったとされています。 曲輪の一角には黒ずんで凹んだ場所があったのですが、井戸の跡だったでしょうか。 松永屋敷の東側、縄張図でいうと水の手に近い場所には、虎口らしき跡も残っていました。 土塁には石垣石のようなものが散見されましたが、石垣の遺構かどうかはわかりませんでした。 空堀跡 土塁跡 松永屋敷(上から見たところ) 信貴山上空には伊丹空港到着機の航空路があり、伊丹に向かう航空機がすぐ 上をかすめるように飛んでいきました。 (羽田→伊丹便では、右側の機窓に朝護孫子寺と信貴山城を見ることができます) 信貴山は大和国と河内国の国境にあるため、古くから築城が繰り返された場所です。 現在の大阪府と奈良県の県境にある高安山には、天智天皇の667年に唐・新羅連合軍からの防衛のため、古代山城である「高安城」(たかやすのき)が築かれたとされています。 また鎌倉時代には、護良親王が反鎌倉幕府軍の拠点としていた場所でもありました。 戦国時代になると木沢長政が本格的に築城を開始し、現在の城跡は大和国を制圧した松永久秀の築城によるものです。 大和国支配の本拠地となった信貴山城でしたが、松永久秀が織田信長に謀反を起こしたため、織田信長軍によって1577年に落城しました。 50日におよぶ壮絶な籠城戦でしたが、織田信長が望んでいた名茶器「平蜘蛛茶釜」を粉々に砕き、松永久秀は自害して果てました。 「梟雄」として知られる松永久秀でしたが、千利休とは茶の師匠を同じくする文化人でもあり、信貴山城からは茶臼や石臼の破片など、茶道を偲ばせる遺品が発掘されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/11/14 01:26:20 PM
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