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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(奈良・和歌山編)
大阪府と奈良県の府県境にある奈良県王寺町は、自分が育った場所でもあります。
法隆寺のある「斑鳩の里」にも近く、聖徳太子にまつわる伝説や信仰が多く残る場所で、「片岡山伝説(飢人伝説)」のご当地でもあります。 また府県境には「送迎」と書いて「ひるめ」と呼ぶ地名があり、聖徳太子が河内と大和の法隆寺を行き来していた時、大和と河内の両方から送り迎えしたことに因んでいるとされています。 送迎を「ひるめ」と読むのは、ここで昼飯の時間になったので、「ひるめし」が「ひるめ」になったという説もあります。 613年の聖徳太子の「片岡山伝説」(飢人伝説)にまつわるのが達磨寺で、達磨禅師の化身とされる飢人の墓の上に本堂が建っています。 本堂 以前はもっと古い建物だったのですが、前面の国道168号線の拡張に伴い、2002年に改築されたそうです。 本堂の右手裏にも古墳があり、石室は法隆寺まで続いているという言い伝えもあります。 本堂の内部は一般公開されていて、ご本尊の撮影も可能とのことでした。 本尊 左から木造聖徳太子坐像(国指定重要文化財)、木造千手観音像(王寺町指定文化財)、木造達磨坐像(国指定重要文化財) 達磨寺ではずっと地元のボランティアガイドの方に説明を受けていたのですが、聞けば20年前に大阪から転居してきたそうです。 地元育ちの私よりずっと地元の歴史に詳しいので、恐れ入りました。 達磨寺の境内には、「雪丸」の石像も置かれていました。 「雪丸」は初めて知ったのですが、聖徳太子の愛犬で、王寺町のマスコットキャラクターにもなっているそうです。 境内に数多く建ち並ぶ石塔の中で、碑銘も何も書かれていない石塔があります。 「松永弾正久秀墓 天正五年 十月十日」の文字があるそうですが、現在は風化してしまっています。 天正5年(1577年)10月10日は、織田信長軍によって信貴山城が落城し、松永久秀が自害した日で、現在でも毎年10月10日になると、達磨寺では法要が営まれます。 ここに松永久秀の亡骸を葬ったのは、同じ大和国で覇権を争ったライバル、筒井順慶でした。 松永久秀の末裔の方々も、全国から達磨寺に訪れるそうです。 ガイドの方によると、爆笑問題の太田光さんの夫人、太田光代さん(旧姓松永光代さん)も末裔で、達磨寺を訪れたことがあるとのことでした。 久しぶりに西大和に帰って来ると、駅前などの都市の景観が変わっていたりしました。 大阪のベッドタウンにあって、都市開発は避けて通れない波かも知れませんが、それでも文化財や史跡の保護を重視する姿勢だけは変わっていなかったように思います。 さらにはボランティアガイドさんたちのように、その地元の歴史を後世に伝えて行く姿勢も、昔のままでした。 漫画「片岡山飢人伝説」について→こちら(達磨寺のHP) ↓奈良県王寺町観光プロモーション 冒頭は達磨寺ですが、王寺駅と大和川沿い以外は行ったことない場所ばかりです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/11/15 07:31:14 PM
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