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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
「水戸のご老公」こと、黄門様の徳川光圀がまさに隠居していた場所が、「西山御殿」(西山荘)です。
西山荘は水戸城から北へ約20㎞行った常陸太田市にあり、人里離れたひっそりとした場所に建っていました。 表門のような門構えですが、通用門だそうです。 表門である「突上御門」は、逆に質素な造りになっていました。 城郭でいうならば、ここが大手門です。 徳川光圀の居宅も質素な造りで、とても徳川御三家の藩主の居宅とは思えないほどでした。 徳川光圀の当時の住居は1817年に火災で焼失してしまい、現在の建物は1819年に水戸藩によって再建されたものです。 徳川光圀の偉業の1つに「大日本史」の編纂がありますが、隠居後もこの西山荘で編纂作業を続け、ここで一応の完成となりました。 やはり徳川光圀と言えば、「水戸黄門漫遊記」があまりにも有名かと思います。 実際の黄門様は水戸城と水戸藩の江戸藩邸(小石川後楽園)を往復するくらいで、全国各地を巡ったわけではないようです。 (藩の執務に忙殺されて、とてもそんな余裕はなかったかと思います) それでも「大日本史」の編纂にあたっては、家臣たちは史料を集めるため、各地を巡ったと言います。 その家臣の中には、佐々介三郎宗淳(助さんのモデル)と、安積澹泊(覚兵衛、格さんのモデル)がいました。 水戸城の三の丸、JR水戸駅前に建つ御一行の像 「助さん」こと佐々木助三郎のモデルとなった佐々介三郎宗淳は、「ご老公」の隠居後も徳川光圀のすぐそばで暮らしていたようです。 佐々宗淳(助さん)の居宅跡 「水戸黄門」の名君ぶりはテレビドラマで全国区で有名ですが、実際の徳川光圀も常陸国(茨城県)では「義公」と呼ばれ、名君として称えられています。 「徳川御三家」である水戸藩の藩主を退いて隠居の身となった徳川光圀は、一領民として水田を耕し、年貢米を納めていたそうです。 徳川光圀の水田「ご前田」 「水戸黄門漫遊記」が世に広まったのは幕末の時代で、ちょうど徳川斉昭が水戸藩主だった頃だと思います。 徳川光圀が「義公」ならば、徳川斉昭は「烈公」として称えられ、常盤神社にはその義公と烈公が祀られています。 (徳川斉昭も庶民的な藩主で、「偕(みな)と共に楽しむ」の「偕楽園」を造園し、身分を問わず一般開放した人でした) 庶民派の徳川斉昭に、かつての庶民派である徳川光圀をオーバーラップさせて、「水戸黄門漫遊記」が生まれたのかも知れません。 ところで、西山荘は紅葉スポットとしても知られており、実は紅葉がメインで訪れた場所でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/12/16 08:30:39 PM
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