岩井営所・国王神社(茨城・坂東市)
「日本三悪人」の1人に数えられて永らく朝敵とされる一方で、武家社会からは英雄視をされたりと、毀誉褒貶の激しいのが平将門です。(日本三悪人と朝敵では、足利尊氏も同じような評価をされています)939年に下野・上野の国府を襲撃し、関東8ヶ国を支配して自らを「新皇」と称した出来事が「平将門の乱」で、その平将門が本拠地としていた場所が茨城県坂東市(旧岩井市)です。旧岩井市にある平将門像平将門ゆかりの地については、伝説も含めて全国各所にあり、悪名と共に信望の高さもうかがえるところです。それでも坂東市が最もゆかりが深く、ほんの少しでも将門の人物像に触れてみたいと思い、旧岩井市を散策してみました。まずは国王神社茅葺の社殿に歴史を感じますが、祭神は他ならぬ平将門です。将門の終焉の地に建てられたとも言われ、将門の三女である如蔵尼が刻んだ平将門木像が秘蔵されています。拝殿の内部には数多くの供え物があり、それだけ地元の信望の厚さを感じるものの、その信仰も憚られる時代が長かったことと思います。国王神社からほど近く、現在は住宅地となった中に石碑があり、ここが平将門が本拠地とした岩井営所の跡です。この辺りは「島広山」と呼ばれ、やや小高くなった丘陵地にあります。島広山遠景歴史に「もしも」は禁物とは思いながら、もしも平将門があと200年後に生まれていたら、ここが武家政権の最高権力である征夷大将軍の本拠地、すなわち幕府になっていたことでしょうか。島広山の岩井営所のすぐ東には延命寺があり、平将門が岩井営所の鬼門除けにしたとされています。延命時周囲は方形の一重の水堀で囲まれており、居館の跡であったかも知れません。それにしても、約700年後に江戸に幕府が開かれ、自らが神田明神に祀られて鬼門除けになるとは、思ってもみなかったことでしょう。島広山のすぐ近くには「石井の井戸」の跡があり、平将門が王城の地を探している時に老翁が現れ、その老翁が大石を持ち上げて地面に投げつけると、そこから水が湧いたとされる場所です。岩井の地名の由来ともされる石井の井戸跡昭和の初め頃まで水が湧いていたそうです。その老翁を祀って平将門が守護神としたのが一言神社で、石井の井戸のすぐ近くに建てられていました。まだ基盤を持たない武士の地位確立を求めて棟梁に担ぎ出されたのか、それとも東国武士の独立政権を作ろうとしたのか、平将門の真意はわかりませんが、源頼朝が武家政権を確立する200年以上も前に、1,000人規模の武士を統率していたことだけは間違いないようです。それでも武士団を率いるにあたっては、人望と主従関係、そして功に報いる恩賞の地が必要かと思います。平将門が求めた地は都ではなく、肥沃な坂東の地だったのかも知れません。