カテゴリ:コンサート試聴記
9月8日午後7時、サントリーホール
ビエロフラーベク指揮 スメタナ「わが祖国」全曲 日本フィルハーモニー交響楽団 標記に行きました。 たけみが、生涯を賭けて愛している曲です。CD1枚になんとか入る曲の代表格の一つです。この前、CDを整理していたら70枚程度発見されました。これにLPとDVDを合わせるとすでに100枚に近いかも知れません…たいていの方は、世界中にそんなにこの曲の録音が存在している段階で驚かれるでしょうね。しかし、音楽オタク、音源オタクのたけみにとっても、この曲だけは絶対不可侵・特別な世界なのです。 ビエロフラーベクは、クーベリックが42年ぶりに帰国して、チェコフィルと「わが祖国」を、プラハの春音楽祭で振った1990年と、彼の最後の来日&生涯最後のコンサート(1991年=サントリーホール)で、やはり「わが祖国」全曲を振った当時の、チェコフィルの首席指揮者(1990-1992)でした。 昨夜は、その意味で期待を込めて行きました。なぜなら、日本フィルの音楽監督である小林研一郎は、チェコフィルと「わが祖国」を録音した、初のチェコ以外の人物であり、彼の手ですでに日本フィルは「わが祖国」の演奏経験もあったからです。 さて、実際のところは、下記の感想を持ちました。 一昨年の、やはりサントリーホールでの、チェコフィル=小林「わが祖国」よりも、数段優れた演奏であったと…もちろん、これは小林研一郎を貶めるものではなく、彼が日本フィルのレパートリーに仕込んでいた過去の経緯が大きく貢献しておりますので、昨夜の感想に留まるお話です。 一方で、たけみのビエロフラーベクに対する感想ですが、彼は1990年と1991年にクーベリックとともに演奏し、外遊し(1991年日本公演は、クーベリック、ノイマン、ビエロフラーベクの3指揮者による公演でした。この年のチェコフィル来日公演は、たけみは3指揮者全員の、合わせて5公演を聴きました)クーベリックの芸術に触れた経験が、本人の芸術的良心を超えて、ビエロフラーベクの楽曲理解に浸透したのでしょう。昨夜の彼の演奏は、世界中の他の誰よりも、クーベリック=チェコフィルの解釈に近似していたように感じました。ビエロフラーベクがクーベリックの指揮に接する前にチェコフィルと録音した「わが祖国」もCDになっておりますがそのCDからはクーベリックの影響をほとんど感じ取れません。もちろんそのCDも優れた指揮をしておりますが、あくまで感覚上の問題として捉えたお話です。 昨夜の彼の指揮ぶりはまさにクーベリックを彷彿とさせるものでした。通常は、プロの芸術家としては、あまり好ましくないことかも知れません。しかし、あの激動の時代をチェコで生き抜いたビエロフラーベクが、標記歴史的コンサートで受けたインパクトは、われわれのような平穏な人生を送るものには想像を絶するものであったと思いますし、それ以前に、両者は同じ民族なのでしょう。他人が口を挟むことができない絆があったのだと思います。それは、たけみが、この感想を全肯定して書いていることでもご理解くださると思います。 1990年プラハの春の前夜祭において、市民は興奮の坩堝に陥っていたように感じます。プラハの旧市街広場に10万人を超える市民が集結し、野外ステージで行われたクーベリック=チェコフィルの演奏は、これはコンサートではもはやなく、自由を獲得した民族全体の讃歌であったように思います。あの熱い思いが国民を支配していたのはわずか16年前のことでした。 しかし、彼の国はいま急速に変貌を遂げつつあります。もちろん望ましいことではあると思いますが、たけみには一抹の寂しさも自身のこころに同居しております。たけみが、毎年プラハを訪れるのは、たけみの恋焦がれたプラハの雰囲気(要するに東側の時代)は、あと数年で完全に潰えてしまうように感じるからです。それはもちろんチェコの国民が幸福になり自由になった証です。しかし、たけみのこころに刻んでおきたいプラハはもうすぐ無くなりそうな勢いで、国全体が変貌しつつあります。もしかしたら、たけみの生まれた当時の日本の状況(高度経済成長期)と似た状況であるのでしょうか? 得るものがあれば、失うものもある。しかし、こころに刻んだ想い出は、その人の人生が続く限り不変なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月09日 06時29分23秒
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