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カテゴリ:幼少年期
14歳まで、東京は練馬大根が匂ってくるような豊島園の近くにあった警察官住宅に住んでいた。ここは大工なんかが住んでいたら怒られそうな住宅で、住人はほぼ警察官に若干消防士といった具合だった。別に大工に恨みなどは全くないが。間取りは、四畳半と六畳の二間で本当に小さい。これが隣と二軒長屋になっていて、この二軒が6つあってワンブロックを成していた。即ち、ワンブロックが12軒。そして、このブロックが8つあって一集団。この集団が更に3つあった。近づく泥棒がいたら褒めてやりたいくらいの環境だった。
どの家も実に貧しかった。ある家は家族8人で住んでいた。給料の額が押し並べてわかってしまう同業者だから、一体どうやって生活していたのかと思う。裏の石井さんの家に行ったら昼ごはんだったのだろうか、ご飯にお醤油だけをかけて食べていた。私の好物は、母が作る少し大きめの塩おにぎりと味噌おにぎり。中には何も入っていなかったが、塩や味噌が暖かいご飯によく混ざって本当に美味しかった。母と一緒によく西武線の中村橋という駅そばの肉屋さんに行った。その肉屋さんの横の狭い路地で、買ってもらったばかりの湯気の出ている5円のコロッケをホーホー言いながら食べる。こんなに美味しいものは世の中に二つとない、そう言える味だった。 今、縁あってフィリピンのセブで英語学校を経営している。業後や週末に、ゴム草履を履いて妖しい路地裏を歩くのが好きだ。草履は思い切り音を立てて歩く。現地の人のようにゆっくり歩く。時々Tシャツをまくって腹を出して歩く。現地の人たちがやっているようにこんな風にして歩いている。子供の頃に戻ったような感覚に晒される。不思議な感覚だ。そのままどこまでも行ってみたくなる衝動に駆られる。 練馬のこの警察官住宅には、いろいろな人がいろいろな物を売りに来た。豆腐、納豆、おでん、焼き芋、アイスキャンディー、爆弾(米を出すと爆発させてお菓子にしてくれる)。そして、御用聞きさんでは、乾物屋、八百屋、米屋(ヤミ米屋と呼ばれていた)、クリーニング屋、漬物の行商、呉服屋、などなど。ゴムひもなどの押し売りもあった。 「豆腐屋のおにいちゃんったら本当に失礼しちゃうわ。隣の若い広瀬さんの奥さんには『奥さん』っていうくせに私には『おばさん』だってさ。もう買わないわ。」 まだ、30代だった母が怒っていた。でも、それからも同じおにいちゃんから買ってはいた。 ある冬の午後、おでん屋さんに言われた。「坊や、体の中で『お』のつく所を5つ言ってごらん。できたら、何でも好きなおでんを5つ食べていいよ。でも、『お』を抜かしても言えるのは駄目だ。たとえば、「お尻」とかね。いいかい?」私は、それからず~とそのおでん屋さんについて行って夕暮れになってしまったが5つ出なかった。 気が長いのだろうか、今も時々数えたりしている。 毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。 タコ社長の本業・オーストラリア留学 タコのツイッター Twitterブログパーツ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013年08月26日 21時14分09秒
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