浴室 8
日曜日の昼間に入浴をした。玄関の鍵を確認して、電話線と光ケーブルを抜いて、浴室に入った。「ねえ」「だれ?」「わたし」「わたしって誰?」「みんなきてるわ」「どこに?」「あなたの浴室」「浴室のどこ?、みんなってだれ?」「あなたの後ろよ、ふりかえっちゃだめ、そう、あなたの二度とあうこともない女の子と女たちよ」「そうか、で、ぼくに何の用?」「寂しいと思って」 彼女たちの共通するその種のやさしさは、おこがましさに似ていた。結局、僕が寂しい理由を作った当人たちが、そこを気にするのは奇妙な話だった。むしろ、彼女たちが入れ替わり立ち代り、僕の浴室に、存在することは、すでにこのころには僕の日常になっていた。 かの女たちのおこがましさの安売りは、自分かってな優しさや、心配や、懸念の危惧の、かの女たちの脳みその内部の科学変化について、(僕は当時感情をその程度のものだと考えていた)僕にその実在や、肯定や否定を、検証し、かの女たちの確信になるべく、質問責めになるのだった。 むしろそれらは、愛の拷問で、しらじらと夜があけるまで、攻められたこともあった、僕は不幸にも、マゾの嗜好はなかったので、その愛の確認は苦痛以外のなにものでもなかったし、愛の消滅への重要な要素になっていたりした。つまり、かの女たちは、僕の愛し方に、かの女たちの好みの愛し方を強要していくことで、僕はかの女たちのかつての男たちの、キスの癖や、愛し方の良好点、問題部分を僕において、再検証されている気分になり、むしろ彼らに同情と、彼女たちと別れたことにおいて、共通の羨望や、安堵感を共有していることに、きづいた。 そういう理由で、恋愛の経験のある少女もしくは成人女性に、かるく恐怖感をおぼえているのだった。そしてその日常と非日常の境目が、その浴室なのだった。