二十歳の夏・白いスーツの君と、あの橋を渡った。
広尾の伊東屋で待ち合わせした夕暮れは、あのころのような亜麻色のたそがれの時間だった。彼女はそこに存在して、私を愛してくれた。そういった時間の共有ですら、淋しい思い出の詰まったその街を、あたらしい思い出で満たしてくれた。 明治屋でキャビアを見て、セナも来たこともあるというイタリアンレストランのDINNERが始まる前に、あのころはなかったスタバでなぜか紅茶を飲んだ。 彼女は私を愛していない、友達だといったが、私は愛されていることを感じていた。 少女の面影が、日に日にうすくなっていく彼女は、美しい女に変わろうとしている。 彼女のつらさを感じた、僕と食事に出かけてることで、不如意なうわさや誤解のなかで、彼女は羨望の妬みのなかで、私に会ってくれていた。そういった時間を与えられることは、幸せな感じがした。 夜になった広尾のイタリアンレストランのろうそくの光の中で彼女は微笑んでいた。まるで妻のようなやさしさを感じた。つまり家族のような懐かしさや、私のさまざまなことを彼女は知っていたし、二人はそういった障害のなかで、ゆっくりと大切に、その友情を育んでいた。「君が男だったらよかったのに」「それじゃ つまんないよ」「そうだね ここに食事にくることもないよね、男なら」 彼女は女と少女を行き来しながら、時折大人ようなことを言う。 であった頃は二十歳で、もうすぐ2年になろうとしている。「はじめてあったころ、僕疲れていたでしょう」「うん、かなりね」 雑貨屋の店先をみている彼女は、外灯のやわらかい光の中で、見違えるほど美しく見えた。 二人は手も握らずに、友人のまま、しばし広尾の小道をあるいた、あのころの私を探しているように。 ファイルを確認していると、別れた女が寄越して来た笑顔の画像が残っていた。 あのころ、そして、その夜の最終電車の時間がきていた。 僕は、家族が旅行中の彼女の自宅にいた。その日初めて彼女の部屋にはいった。彼女のデスクをみた、その彼への恋文を書いている作業現場は思ったより小さなデスクだった。ふたりは、互いに本題を避けるようにして、とりとめのない話をして、終電車になった。 僕はそこから新幹線で一時間ほどのところに暮らしている高校2年生だった。彼女とキスをしたことはあるが、彼女とは純愛だったので、彼女をほしいとは考えていなかった。 グレープフルーツのグラスが空になっている。ここはPAPAの会社の社宅のマンションだが、社宅にもピンきりで、ビルの外観より、内装のほうがすごいピンの方の社宅だった。彼女のPAPAは会社のお偉いさんなのがわかる。 僕と彼女のPAPAは出光に勤めていた。かれらが面識があったかどうかはわからない。やがて父は五洋建設にあるPROJECTのために引き抜かれたので、多分彼女のPAPAは僕の父をしらないままだったかもしれない。 ある日彼の本棚に会社の写真集があった。そのなかに彼女のPAPAの写真もあった。結局僕は彼女のPAPAにお会いしていない。いつか遊びにきたとき、彼女のMAMAが僕のためにカツドンを作ってくれた、おいしかったが、気になったのは大根のお漬物だった、それは沢庵だったが、高級な沢庵だった。 僕は彼女のPAPAのように、この生活レベルを彼女の娘のために用意できるか自信がなかった。僕の母は、彼女が僕のうちにはじめてきた中学3年のとき、彼女の編み上げブーツについて、異議を唱えていた。 そうして僕はそのマンションを出て、彼女のフロアを見上げた。 彼女がベランダの手すりに、頬つえをついてこちらを見ていた。 僕たちはそうして、そのまま、長い時間みつめあっていた。 あの夜結ばれていたならば、彼女はいまここにいたかもしれない、そんなことを考えた。 ふいに涙が出てきた。彼女は甘い表情で笑っている。僕は削除キーを押した。 最後に電話で話したとき、どこかの社長と飲んでいる様子だった。 希望に夢見た19歳の春が、一度だけ抱かれたそういった懐かしい思いでが、傷ついた心を抱えて、どうしろというの? 懐かしい記憶のなかの19歳の君は、僕を愛してくれた。そういった夜明け前の薄明かりが、BEDの彼女をやさしく包んでいる。 長身の細い体ににつかわしくない豊かな胸や、なんどもキスしたその唇が、彼の欲望を暴発させた。酔った彼女を地下駐車場から、スイートの夜のように、彼のBEDに運んだ。愛は重さを感ない。エレベータ前で、手すりにつかまって、吐けない彼女が猫のような嘔吐物を、20Fのエンタランスに向けて落とした。 こうして僕のBEDにながされてきた愛おしさだけが、なにかしら物狂おしく、強く抱きしめても、体はなにも語ってこない。 たくしあげた赤いスーツのまま、彼女は眠り込んでいた。決して情事の間、そのスーツを脱ごうとはしなかった。 床にピンヒールが転がっている。 彼女のために朝食を買いに出かける。 拒食症気味の彼女は、すこしだけアップルタイザーに口をつけたまま、スーツのままBEDで体を横たえている。 数日後、彼女の嘔吐物は、干からびてアスファルトのしみのようになっていたが、やがて振り出した雨はすべて洗い流した。 秋になった。わたしは彼女が愛していたのは、僕でなかったことに愕然としながら、あの夏の夜の出来事を、ときどき夢のような感じで、彼女のからだの感触や、長い足の風景を思い出したりして、余韻がまだその部屋に残滓の気配がのこっている。 複数のほかの女の新しい肉の記憶で拡散しようとしたが、うつくしい彼女の記憶は、時間と共に増幅して、そういった情事の、彼女の微妙なしぐさや、抱きしめた背中の指の強さだけが、そういった抗えない未練のような愛の時間をくりかえしくりかえし、脳裏のなかで、彼女をいかせ続けている。そして 二十歳の夏、白いスーツの君と、あの橋を渡った。 その橋をひとりで歩いた。 また二度とこない季節が終わって、 美しい君のぞんざいにBEDに投げ出した体の、くすぶって消えきらない朝焼けの二人は、不幸な諍いの、そういった取り返しのつかない時間の中で、ゆるやかに記憶が遠くに移ろいでいく。 彼女は言った。「ほんとに作品かくのなら かたかたPC打ってないで、びしっと原稿用紙にかいてみな」 彼女の誕生日は忘れてしまった。銀座の資生堂パーラーで、あのケーキを探した冬近い夕暮れ、顔見知りのスタッフがいった、「オフシーズンでございます」 渡しそびれたままの、モンブランのボールペンだけが、残された。 彼女の体の記憶を消し去るために、おびただしい新しい体を求めた。彼女を愛していたような、あいまいなそういった行為は、心の場所のある体を、代償の体を求めていく不毛な情事の堆積がかさを増していた。「私、愛してる人がいるの」 夜明け前の私の部屋で、コーヒーのマグを抱え込むようにして、うつむきながら彼女は言った。覚悟はできているのか?と聞こえた。 僕は白んでいく夜の気配の窓の外を見た。車のライトが遠景を流れていく。「どこに帰るのかしら、さみしい川のながれのよう」 僕は彼女の虜で、いくらほかの女たちにだかれても、このやっかいな乾きの心は満たされることなどないと承知で、泣きながら目覚める朝が怖くて、眠れないでいる。 彼女が僕を必要としたPHASEを反芻しながら、素の彼女が愛している男には見せない表情や、状況のなかで、求めた事実だけが、その厄介な恋の行方を照らし始めている。「SEXはしないよ」「もうあわないようにしましょう」「HPはみてないよ」「ここ外国みたいね」「デザイン外国のひとらしいよ」「なるへそ」「ねえ」「なに」「私を見ないで」 彼女は深夜のスタジオで、モニターを見つめたままで言った。 そういった台詞が、ひとつひとつ、浴室でうかんでは消えていく。