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カテゴリ:哲学研究室
謹賀新年。
今年は年賀状サボったので、ここでご挨拶。 pcが言うこと聞かんし、古いプリンタも認識しなくなった。 古い機械だと動くはずだが、こっちはデータベースが共用接続できん。 オイラももう、時代から投げ出されたみたいなもんでカネもない。 命はまだあるのでよしとしよう。 三つ目 3 オレが見ている。 だからといってオレが主体、ではないのだ。 見ているオレというのも、名指した瞬間実はすでに、「みつめられて」いる客体。 オレとして、すでに反省され認識されたモノだからだ。 この世では、モノのみが認識できる。 認識できないものはこの世のモノではない。 オレ、というのは認識できる現実なので、モノなのである。 現実のモノ。 これが唯物論だ。 デジタル思考しかできない人、反省のない人には、こういった論議は理解不能だろうが。 オレというのは、あらかじめ反省された享有上のモノなのである。 先験的なワクがあって、そこにはめ込まれたものでもある。 時空の枠といっていい。 つまり仮想の主体なのだ。 だが、それには時空の経過があっての事柄で。 1とか0とかの提示が、オレに関する限り、現実の時空反省のモノとなる。 つまりその意味で2進法も時空を持つわけだ。 この現実には、時空が必ず関わっている。 その時空にはさらに。 みつめ(られ)、つまり認識が必ず関わる、というわけだ。 見る、見られる関係を、主体、客体の二元論にデジタル化してしまうと。 この認識の様から現実が消える。 領域外へ追放されたに等しくなるのだ。 認識が純粋化する、というべきか。 経験と先験にからむ闇が追放されて、三つ目の権限だけがデーンと居座るわけだ。 認識論議におけるこの問題は、きわめて重要なのだが。 日常論議や常識論議、特に共有論議においては無視されてきた経過がある。 それはこの問題にこだわると、共有論議が普通には成り立たなくなるからでもあるんだが。 なぜそうなのか、が重要なのだ。 この線を追求してみたいが、容易に共有論議にならん、のでは話にならん。 デジタル化して共有論議にすると、認識は数学化してしまう。 現実無視の方程式になっちまうのだ。 オレという主体もみつめられ、という現実もうすっぺらくなって次元定義に成り下がる。 つまり仮想の時空になっちまう。 オレが見ているのに、仮想の時空が幅を利かすというのは具合が悪いだろう。 だが、それが日常の現実なのだ。 ほんとうは命が幅を利かしてると思うんだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月01日 08時01分12秒
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