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カテゴリ:哲学研究室
経験と先験にからむ闇が追放されて、三つ目の特権だけがデーンと居座る
これが認識論議における三つ目問題。 闇の部分の解明論議は、きわめて重要なのだが。 日常論議や常識論議、特に共有論議においては無視されてきた。 そういう経過がある。 それはこの問題にこだわると、共有論議が普通には成り立たなくなるからでもあるんだが。 なぜ、なのか。 なぜ成り立たなくなるのか。 識優先になっちまうからであると思う。 客観論議にならなくなる。 みつめ(られ)、つまり認識が、あらゆる事柄に必ず関わる。 主体的なみつめる、ことの客観論議ではなくて、自分の主観が入る。 かならず純粋な客観論議はできない。. これの論議を、を唯識論に分類し、客観論議だとしてかたずけようとしても。 客観的な論議ではないのでかたづかない。 また、唯物論ではなくて、識優先の、こっちがただしいのかというと。 みつめ(られ)はモノの存在でなく単独存在できない、のだから、正しくない。 識は必ず唯物識となって、そこではじめて識なのだ。 唯識識、とはならない。 識優先では対象物がなくなっちまうんで、論議はできないということ。 ましてや弁証法みたいに唯論論にもならない。 そもそもあらゆる論議は、感性的肉体なしには成立しないのである。 だから、意を抜きにして、識だけが先にあるなんてこと、は起こりえない。 意識は必ず・・・であることの主観の入った意識であり、これはモノ、が関与している実在なのだ。 単純に言うと、現実のモノ、が関与している。 実在が関与している。 共有化された祭りごとが、共有化の政治が、関与しているんではない。 有職故実に囚われてはいけないが、そのような認識ができるのは事実。 享有の現実の諸形式が、関与する。 現実の諸形式、つまり時空をごまかして政治にする人は多いのだが。 彼らは間違っている。 ところで、そのモノを、どう見るかだが。 必ず享有されたモノでなければ、論議は共有の絵空事で終わる。 コロナウイルスみたいなものになっちまうのだ。 同時に、共有論議に乗らなければ。これも無意味となる。 いくら電磁波説が正しくても、少数派では無視される、ということ。 つまり身体的なモノが関与していないと、コマーシャルだけのウソ八百で終わるが。 修辞学的な権力がなければ大衆のディアレクチークにならない、ということ。 弁証法はまったく違うモノなので、ここで間違わないように。 あれは虚無主義者の言い訳にすぎんので。 時空の中で感覚が、あらゆるモノに先立つ。 これは動かしようのない事実。 虚無の関われない実在の世界だ。 モノは必ず感覚的にしかも感覚に先立ってあり、認識のワクをこさえている。 つまり経験のモト、先験性となっている。 あらゆるモノは、時間・空間として、先験的に存在認識されている。 モノ=時間・空間=存在、なのである。 そしてこれは、現実にある感覚からのみ導き出される論議。 サイコパスでは無意味となる。 ここには知性的なモノが一切関与しないのだ。 そのことに注目されたい。 把握して認識する、知性が主人だ、と思い込んでいるのが世間だが。 モノをモノたらしめる、形而上のモノとする、インスタンス的写し絵機能は、モノの先立ちには無用、なのである。 ロゴス的なものは、言い訳するためのモノ。 再現には必要不可欠だが、享有認識には必要ない。 そして享有あっての共有なのである。 先立つものはロゴス的なカテゴリーではないのである。 つまり知性ではない、感性なのだ。 先立つものは、その感性のロゴス化される前の感覚。 それがアルケーだ。 意識は必ず唯物識で、なおかつ時間・空間を持つ、感覚ものなのである 知性的なモノではなくて、動物的、芸能的な、出ーで来る、もの。 ポイエシス関与の、ミュトス権能だということ。 知性が落ち込むような虚無ではない。 感覚が、そこにはまって出ー来るもの、なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月05日 08時48分31秒
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