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カテゴリ:哲学研究室
時間と空間が同じモノであるように、感性と知性もじつは同じモノ。
どちらも身体に属し、享有するとともに共有している。 これらは直観だが、直観アンシャウエンは誤りようがない。 写し絵、だからだ。 享有として、アルケーに立っている。 それを三つ目だ、権能を得たのだとと錯覚してしまうと、誤ることになる。 権能、などといった特権は存在しないからである。 能を考えるのに、どうしても権能を立てざるを得ないが。 権能というのは間違った推論なのである。 直観があるのみ。 身体の享有をもとに知覚し、認識しているだけのこと。 感性が感覚の反省で、知性的に理解され、経験となって。 自分に対して分かる、だけのこと。 直観というのは、この経験のもととなる写し絵。 なので、誤りようがない。 自分の感覚が誤っただけである。 実際に感覚は誤る。 自分に対しては絶対に写し絵して正しいが、共有にたいしてはデタラメだ。 知性は誤らない。 共有に対して推論の間違いをやるのみ。 感性は誤るものだが、理性は誤らない。 経験的な、モノではないからだ。 しかし、だから理性絶対、ではない。 人の理性は感性の上に立った経験の集積でできており、いわば誤りの集大成なのだ。 これらの無知の知を抜きにして論議を進めてはならない。 実際には進んでしまっている。 虚偽の統計や仮説をもとに防疫体制を進めた優生学悪魔たちの言動みたいなものが世間には溢れている。 彼らは大衆をがけっぷちに走らせている。 哲学が殺されて、そのままになっているからだ。 人は感性的経験をもとに、物事を理解しようとする。 つまり時空の感覚をもとに考察を推論する。 弁証論を推し進めて、自分の論議を言い訳するのだ。 この弁証論は、理性的である限り絶対に正しい。 それは自己享有に対して言えること。 見つめ(られ)て、のみ言えること。 しかし共有論議として、三つ目論議として正しいわけではない。 時間・空間という、自分だけの身体的享有に縛られた論議だからだ。 時間・空間を超越して無の世界の論議にしてしまうと、三つ目が居座る。 絶対的に正しい法が、世間に居座るように思ってしまう。 これが弁証法である。 弁証法は絶対に正しい。 しかし、実在しない、のだ。 知性や感性の関係を正しく修辞学的に理解せず。 哲学もなく。 三つ目論を弁証している、つまり言い訳しているのにすぎないからだ。 弁証論は正しいのだが、アルケーが虚無だからである。 知性と感性の関係だとか、知覚と感覚の関係だとか、あるいは知性と知覚の関係だとかの論議も、同じだと思う。 三つ目論議でやってはいかん、のである。 人は神ではない。 身体享有という、アルケーを明確にして、それを理解せねばならない。 考えて理解する。 文字通り、解体してぶっ壊さねばならない。 そうしないと、自分の誤りはわからない。 これは自分に対して言い聞かせているんである。 自分の無知を知るところまで。 三つ目認識が知識となって、オイラたちをがんじがらめに誤らせているから、ことさらに必要なのである。 こういう論議は、修辞学ではできない部分。 聖アウグスチヌスは、唯一神のもとで、それをやろうとした。 これを超越だと解釈したのは、次の誤った世代の修辞学だが。 実は知性的直観を立てたにすぎない。 唯一神を立てたのではない。 神については一切弁証してない、のである。 できるはずがない。 人は神ではない。 聖アウグスチヌスは、共有論議にして、それを三つ目で言い訳しようとはしてない。 修道院で修行するのみ。 経験的な誤謬は、人の原罪である。 そのことを、現在であることを、ちゃんと論じている。 直観には誤りがないが、それは自分の認識に対してのみ言えること。 共有認識として誤りがないかどうか、は別問題なのである。 倫理と道徳の関係に似ている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月07日 05時12分48秒
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