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カテゴリ:哲学研究室
哲学的認識においては、利権排除が極めて重要。
経験的利権を排し、直観にのみ頼ることが必要である。 つまり欲得だとか、有利に働く将来的投資だとか。 こういったものに囚われると、具合が悪い。 拘って病気になってしまうのだ。 人は共有社会の中で生きることを、しがらみの中で、と、こう呼ぶのだが。 しがらみに囚われて、病を得て、動けないことになる。 タル住まいの先生なんかは、これを嫌がったのである。 認識は経験で得られる認識なのだが、そこで頼るべきものは、見つめ(同時に、られ)。 一方向じゃない。 ましてや、しがらみを見通す三つ目、ではない。 経験的観察に頼るべきだが、経験的しがらみは重要ではない。 それは病気の類、だからだ。 しかし専門家から利権を取り去れば、何も残らないだろう。 メジャーなジャーナリズムから、ピエロの利権とコマーシャリズムを取り去れば、何もなくなる。 現代社会がはまってしまっているものが、まさにこの「理研」なのだ。 誤字当て字ではない。 実は聖アウグスチヌスが自分から嵌まっていったいったものも、同じ、これだった。 ローマ帝国という巨大組織に、出ー来始めていた利権。 つまり優生学的特権の組織立て。 これが修道院組織とキリスト教だった。 それに自分からハマっていった。 昔のジャーナリズムには、この組織建てと修辞学も必須だった。 それがなければ論駁できないし、そもそも理屈を構築できない。 オイラが理屈をこねているのも、この修辞学なのである。 哲学は無知の知であって、修辞学的三つ目ではない、と言うべきか。 それでも修辞学を追放できない。 これは絶対に三つ目ではないので間違わんように。 しかし「優生学的特権を構築する」のである。 つまり三つ目形成のように働く、のだ。 共有社会において、この特権はドミナントなものであって、絶対の力を持つ。 今日のジャーナリズムが、世論という名の、架空の優生学的特権を持つようなものだ。 別名ピエロとも言うらしい。 そもそもウイルスかどうかハッキリしないのに、ウイルスだと決めつけ。 ウイルスは分離されて特定されてません。 死にかかった細胞の殻をかぶって。 トゲトゲタンパクのエクソゾームとしてジャーナリズムに出てくるだけ。 これがメッセンジャーrnaの原料になって販売され。 予防接種という、人体遺伝子組み換え研究に悪意利用されてるだけである。 三つ目認識のフリしてるが、目的は新特許権益。 グラフェンと電磁波の作用かどうかハッキリしないのに、確かめもせず。 便利さをうたい文句に、構築した電磁社会の諸組織にこだわっているだけ。 インフルエンザ・デッレ・ステッレ、からは星の名前すら消えた。 イタリアでこの名が生まれた頃には、ウイルス説じゃなかったのに。 今や、そのインフルエンザすら、人々の念頭にはない。 予防接種が生んだ、悪魔のオミ・クローンの追加宣伝ばかり。 対象療法で治っていないのに、優勢学医術にのみこだわる現状があるばかり。 背後にも、さらにその背後にも、重層化して優生学があるのだ。 別名、積極的キリスト教という、ナチズムがある。 三つ目理研がデーンと、居座っているのだ。 利権を取り去れば、世に専門家なんて、一人もいなくなる。 いらなくなるだけじゃなく、消えてなくなる。 医師も、ウイルスの専門家も、ジャーナリズムピエロもだ。 アマチュアだけになってしまうのである。 おいらたちの社会がじつは、そんな三つ目特権の優生学で構築されてしまっている、からなのだ。 これは哲学的認識のみならず、修辞学にとっても致命的である。 その修辞学の背後にも三つ目がいる。 その致命的な現状が、牙を剥いている。 オイラもサーズ予防接種以降、完璧に体がおかしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月13日 05時50分10秒
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