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カテゴリ:哲学研究室
思惟は、経験的に得られる利権。
アルケーの不思議に誘われて、現実を訪ねる旅をしているわけだが。 実際には反省を通じて再現した時空での、利権享受を狙い、得ている。 感覚とか知的直観といった権能を企画し得て。 その権能で、再現させて確認している、ということ。 思惟とは時空形式の企画構築である。 再現によって、はじめて、みつめられる。 ここに科学技術の萌芽がある。 みつめているだけでは認識できず、ぶっ壊して再構築して この反復によって つまり受け取り直しによってはじめて、みつめが三つ目となっているように哲学的に感じるということ。 実際にはみつめ、ラレ、になっているわけだが。 現実というものが、もし共有の時空存在なるものによって、あらかじめ与えられているのだとしたら。 その現実は、認識がなくなってからも、現実であり続けることになる。 自分の現実がなくなっても、現実がある・・・なんて。 アホみたいな話。 このアホ話をしかし、共有社会では日常的にやっている。 これは超越的時空論議だ。 だが、そういった超越論は時空のない知的直観のみの話であって。 現実には、ひとは超越者ではないので、知的直観つまり瞬間の三つ目でしかない。 超越したその先は、虚無に落ち込むしかないわけだ。 感覚のない、つまり「時空を持たない知性の超越はない」。 知性は同時に必ず感性なのであり。 知性感性そろっていて、はじめて生きている人間。 アルケーが目くばせするこの現実という存在も同じ。 三つ目(られ)というみるもの、みられるもの、これがそろっていて、人のもの。 コギト、というデカルト的思惟も例外ではないのだ。 知性的直観はかならず感性的感覚を伴い。 それが経験を形成している。 時空経験がそこになければ、つまり時間的アルゴリズムと定義の枠がなければ、数学ですら成立できない。 哲学的認識においては、利権排除が必要なんだが。 これが完成してしまうと、つまるところ、ニヒリスムスなのである。 弁証法は、そのニヒリスムスを立てる張本人である。 詩人の側に立って、哲学を殺してしまう。 ポイエシス、出ー来る、そのことに、もたれかかって言い訳してしまうのだ。 **津波も波。みつめと同じ。トンガの巨大爆発だろうと教えてもらったが、電磁波にも化けて世界を駆け巡っているのである。気象も人の命も波。コロナ風邪も波。何もかも波。波の正体はぜんぜんわかっていない。今の科学技術で相手できるかというと、できんと思う。科学技術は人の側の時空企画再現技術だから。哲学の失われた時代にはムリ。** お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月16日 09時46分55秒
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