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カテゴリ:哲学研究室
哲学を踏みつけにして科学技術が生まれた。
邪魔なので詩人使って殺した。 今は、産学共同御用学者の修辞学があるだけ。 じつは科学技術が、この三つ目の典型なのだ。 何度も語ってきたことだが、今一度語りたい。 科学者が特に誰も耳を貸さないので。 読者、遠い過去のたったの10人から、まったく増えてない。 科学技術は、その歴史が時間・空間への記述暦である。 そのことでわかるように。 時間空間を相手にする人の世のもの。 共有の時間・空間を相手にした、さらに目的に合致した、合目的な対象化認識で初めて成り立つ、企画再現技術。 それが科学技術。 単純に言うと、知的な繰り返しコピーの技術(マシーナリー・テクニーク)なのである。 この言い方はハイデガー先生のもの。 コンピューターも生物学も情報工学も同じ。 こころ偏重の、古代ヘラスのテクネーとは関係ないもの。 (テクネーは心構えだと、ずっと述べてきた。忘れかけてた) 企画と、その再現繰り返しとの、機械的技術マシーナリ・テクニークなのだ。 先生の定義は正確。 エクザクトハイト精確じゃなくて、シュトレンゲ厳密。 オイラの定義はいつも大雑把。 科学は、西欧、とくにローマ帝国が生んだ、客観的三つ目据え付け技術、なのだ。 絶対の知的直観の前にへりくだり。 まず対象の自然物を見出す、そのことから始まる。 科分類がモト。 しかし1神教思想の中でしか、科学技術は成立しない。 多神教では、なんかヘンなものになるのである。 三つ目が恵んでくださる、純粋な素材を前にするのだ。 その素材と人は、道具的関係に落ち込み、神の前に奴隷となる。 これがプラグマチズム。 それが、彼ら科学技術信奉者の対象化認識で得た形而上学的世界観だ。 この形而上学的世界観なしに、科学技術は成り立たない。 対象も企画もなければ、機械技術は始めようがない、からだ。 実務力も必要。 計画ばかりで実行企画力のないオイラには、到底ムリな世界。 そもそも基礎を形成するものが、オイラにはムリ。 一神教的、形而上学的世界観、なのである。 グノーシス主義ではダメなのである。 多神教では変節してオミ・クローンになっちまう。 しかし、この形而上学は次の章に、おいておいて。 技術、マシーナリー・テクニークのほうを先に見ていただきたい。 この独特の共有世界は、技術的「進歩」あるいは「深化」という課題を背負う。 マトリクス世界なのだが、いつも自転車操業なのだ。 やってる本人には、この自転車操業は、見えないようだ。 佇んで課題を思い出そうとするとひっくりかえる、ということ。 アルケーで始まる哲学と違って、科学技術では必ず「技術課題」が先立つ。 それが、三つ目の与えてくださるフォースの源だ。 いうなればアルケーだが、彼らは源泉を一切見てない。 見るのは未来の力のほうなので、アルケーが、力の根拠に化けている。 力の根拠、居場所、目的、要するに力の根拠でいいと思う。 メ、が立って、オレの与えてる力を「再現」せよ、という課題が与えられる。 知的直観された対象、自然素材、目的物再現のためのコピー。 それらがすべて「課題」なのだ。 マシーナリーな。 天から落ちてくるリンゴも物理の力の「課題」。 物理はもちろん、生物(分類)においても、生命の力の根源からきているはずの「課題」。 そのリンゴが、かじったら酸化して色が変わっていくのは化学の対象とする未知の力だが。 消化されてエネルギーになるのも生物学の力、生物の生きる力という、メカニズム「課題」だ。 つまり物理をはじめとする科学は、リンゴ研究やってんじゃない。 三つ目の「力の研究」やってるのである。 リンゴなんてどうでもいい。 素材として見出した力は、実は「企画の課題」である。 根拠に化けたその三つ目が、自転車操業を促す張本人。 深化させよ、オレを世に出せ、支配しろ、と。 知的直観、経験的再現ノート(記録と同時に指示書)、対象認識された素材によって企画が立ち。 科分類で始まった生命の学問は、かくして未知の企画の三つ目によって、マシナリーテクニークと化したのである。 この企画は、しかしどこからくるのか? **コピー自由です。機械が邪魔するけど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月28日 07時02分20秒
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