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カテゴリ:哲学研究室
三つ目第一章を終えるにあたり、誓約(うけい)について、蛇足しておきたい。
うけいは、神々への、へりくだり儀式。 それが、誓約。 先の防疫思想とファッシズムの関係も、この第一章に含めることにした。 誓約も、誤解されることが多い。 特に一神教徒の場合には必ず、うけいではなく、単なる奴隷的契約になる。 宗教的カルトにあると、これが理解できない。 神と直面したら、むこうが強いのはまちがいおまへん。 だから必ず、人の側の誓い約束ではなくなってしまう。 神の側からの、契約支配に落ちてしまうのだ。 これに対し、うけいはかならず、神々と「対等の関係」を目論む。 アブラハムみたいな、奴隷的役割は担いません。 神との直の約束事ではなくて、「神々相互の取り持ち」、にすぎないからだ。 いわば、儀式の場を設け、場を取り仕切ること、なのである。 これが、神主のやる、誓約(うけい)だ。 人知を超えた神々の力が、そこんじょそこらにうずまいている。 これは間違いおまへん。 日本人であれば、わかるはず。 中には唯一の神しかいない、というへんな人も、ごく少数いるが。 普通の日本人にとって、個々の神々の顔も力もつかみきれず、その範囲も作用も定かではない。 それで、あたりまえ。 しかしその力の場、知恵の場が、ささやかでも共有で持てたら。 享有、占有はムリでも、共有で利用できたら。 ご利益(りやく)、とはそういうこと。 利益(りやく)は、ピンハネ利益(りえき)のことではない。 人は未知の力や仕組みや無秩序の狭間で、秩序を得て。 ご利益を得て、生きていくことができる。 ご利益は、ヘリ下りが伴うのだ。 小さな自分という存在理由をも、それで掌握できる。 神々の末席に座ろうというのではない。 相互の取り持ち屋、仕切り屋を置く。 こころに建て前を置くみたいに。 そのことで、共有の利用を図る。 それを神主が仕事としてやってくれるのだ。 過去には、うけいの主は、たいがいが権力者だった。 世俗の権力者が、同時に神主だった。 神社自体が政治の中枢、**の宮、だった。 しかし過去にも、権力があるから選ばれたんではなくて。 民衆の代表者だから、神主に選ばれたのである。 神主は神社の守り人だが、その意味を誤解している人がいる。 特定の神だけに仕えているように思いこんでいる人がいるのだ。 神主でさえ、そう思い込んでいるへんな人がいる。 違います。 神主は神社という「場の守り人」である。 「神々の誓約の場の主催者」なのである。 特定の神に仕えるのではなく、神々にでもなく、「誓約の場」の主催者。 神に仕えているのではないし、特定の人々の上に君臨しているのでもない。 共有の場を作り出してくれている人、なのである。 人々を代表し、誓約の場を主催している、普通の人なのである。 そうやってご神託を受け、人々に神々のご意向を伝えるのが、神主の仕事。 ご意向があるのかどうかは定かではないが、神々の力があるのは間違いないから。 現代では、これすら自然の素材力だといいたがる。 へんな風潮だが。 その力を人々に思い出させ、誓約の場演出でエンターテイメントにする。 ミュトス化して、人々に認知させる。 出ー来させる。 それが、お仕事。 これがまた、人々と神々の場の取り持ち、ともなるのだ。 だから詐欺師が紛れ込めば、いくらでも悪いことができると思うだろう。 一神教だと、それが可能だが。 多神教の誓約者には不可能なこと、なのである。 場を清め、精進潔斎し、俗世を振り切って仕えないことには。 神々どころか、悪霊にとりつかれるのがおち、であるからだ。 そうなった人もいる。 しがらみを引きずって神主やると、悪霊に取りつかれる。 そもそも、神々は善神でも悪神でもないからだ。 **非営利コピー、一切自由です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月05日 09時18分44秒
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