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カテゴリ:哲学研究室
まず、世間であらわな出来事の背後に、積極的キリスト教というのがある。
そのことを思い出すべき。 これが見えてないと、ちゃんとした理由は出てこない。 普遍的キリスト教の背後にも、じつは積極的キリスト教がある。 ナチズムが隠れている。 この「積極的キリスト教が優生学を導いた」ことを、まず述べてみたい。 ナチスが優生学と深いかかわりがあることは、批判者の誰もが認めている。 なのに、ナチスにも優生学にも、誰も深く関わりたくない。 特に反省しようとはしないのだ。 なぜなら、キリスト教徒社会だから、である。 へんなものが見えているが、引きずり出したくない。 そのへんなものを形而上学で相手すると。 グノーシス主義が、ズルっと、でてくる。 この、キリスト教社会を検討する思想もまた、具脳死す、をもたらす。 そのモトのもののようにも思われてしまう。 グノーシスは、1神教徒のみが捕まってしまう、形而上学だからである。 「形而上学に、わずかでも疑念を挟めばグノーシスになる」、のだ。 オイラたち多神教徒は、一見無関係。 形而上学を持たないからだと主張できる。 哲学も無関係だと。 これは無知の知であって、形而上学ではないからだ。 具脳死す主義は。 プラトン主義をこころに持つ、しかもアリストテレス以降の。 形而上学者だけが陥る病気だと。 それが具能シス、愚能死す、である。 哲学思想との関係を装う人が多いが、哲学とは一切無縁な思想だ。 これはシツコく、いっておきたい。 自分の「無知を知る」こと、「知識の破壊」が哲学である。 だが、そんなへりくだりや佇みは、彼らグノーシス主義者は持たないのである。 具脳死すは、読んで字のごとし。 脳が具になって、腐って死んでしまう。 プリオン病みたいなもん、である。 しかし、これはシステム、なのだ。 ダークサイドのシスの者。 紹介者はプラトン先生らしいが。 もちろん先生の意図は「批判」、「破壊」なのである。 硬直思想をぶっ壊して哲学する、自分の無知を悟る。 そのためにデミウルゴスを持ち出した。 しかし次の世代の1神教徒たちが、これに憑りつかれたのである。 世に共有する「唯一の実在」があって。 それは「存在者の存在」であって。 しかも「病んでいる」、というのだ。 ゲ・シックを持つゲシヒテ(ヒストーリエと区別し)だと指摘したのはハイデガー先生。 共有の世には無数の人がいる。 だから、本当は無数の実在がある、のである。 世間は自分だけじゃないんだから。 それを無理やり、積極的に宗教カルトにまとめたい人たちがいて。 形而上学という究極の学問をこしらえ上げた。 三つ目学問。 修辞学とも違うが、形而上学という名称が、わかりやすい。 辞書に哲学=形而上学と書いてあっても、哲学とは一切関係おまへん。 形而上学というこれも、アリストテレス先生が作ったんではなくて。 作ったのはキリスト教徒である。 アリストテレスは、ローマ帝国という国家ぐるみ事業で書き換えられてる。 タ・メタ・タ・フィシカは、メタ・フィシカじゃおまへん。 プラトンのデミウルゴス教説なるものが、書き換え後のアリストテレスの形而上学なるもので解釈され直して。 唯一の神が、できそこない、病んでいる、ということになった。 つまり、具脳死す思想が、できたのである。 プラトン時代には、こんなもん、なかったんである。 そう。 時空関係がおかしくされてる、のである。 彼らの関与の特徴なのである。 時間・空間を病ませる。 あとからできたのに、過去のプラトン先生の思想がそうだ、と。 愚能死すの学者連中は言いたいのだ。 イデア論議と同じである。 過去の自然学を捻じ曲げて、フォアソクラチカーを仕立てる。 自然学論者に仕立てるのと同じ。 時空の捻じ曲げである。 彼らの特徴は、「時間・空間の捻じ曲げ、いじり」、である。 ヘーゲルなんか、時空を無にしちいまいやがった。 プラトン先生が、自分の無知を語るために持ち出した当時のアテナイの流行思想。 そのイデア論が。 いつのまにかプラトン先生の思想とされてしまっているのだ。 イデア論は、プラトン先生の持論じゃありません。 この偉大な格闘技家の同性愛者は、イデアなんかに囚われてはいませんヨ。 男しか愛せない自分を不思議がってた、だけ。 解決つかん、無意味な形而上学的論議だと知ってたからだ。 もちろんこれらの関係をおかしくしたのは、後の時代の形而上学者たちなのである。 哲学者ではない。 積極的にキリスト教の推進を図る、1神教徒の連中が、後の時代になってやったこと。 プラトン先生がやったんじゃ、ありません。 プラトンもアリストテレスも、オリンポスの神々を信仰する多神教徒。 なので、一切無関係なのである。 さて、この具脳死す思想の、どこが問題か、というと。 「自分の思想が病んでいる」、反省は問題ないとしても。 その認識に至った根拠の、共有する唯一の神が問題。 不完全なデミウルゴスなる怪物だから、だ。 三つ目が病んじょる。 そもそも三つ目立てることが問題なのに、それが病んじょる。 世のシステム節理自体が狂っている、間違っている、というのだ。 世には善なる思想は、ない。 もともといいかげんな、誤った思想のみが普遍的にある、とするのだ。 だから未だに、この思想の、ちゃんとした定義すらお互いに共有できない。 対象認識して見つめれば、なにもかも具脳死すになっちまうから、なのである。 その・・・である、ということが、そのまま病気になっちまうからだ。 これは1神教徒のみが囚われる、出口のない、病んだマトリクスなのだが。 それが見えない。 だから悪魔主義だの、エネルギー至上主義だの、へんな軽薄思想を生むに至る。 多神教徒は、誓約(うけい)や禊ぎ(みそぎ)がある。 これで、神々ご隣席の座を自分たちで作り出すので、この危険に遭遇することはない。 1神教徒には、実に深刻な問題なのだ。 しかし実は、オイラたちも、1神教徒たちの科学技術世界に生きている。 同じ現実を共有しようとしている。 なので、まったくの無関係では済まないのである。 やはり深刻なのだ。 その深刻さの特徴は、すでに過去からある。 科学技術の扱う、「時空のゆがみ」に、端的に表れている。 イデア論議と同じである。 彼らの具脳死すの特徴は、時間・空間の捻じ曲げいじり、なのである。 オイラたちの共有する現代社会の科学技術も、この特徴を持ってしまっているのだ。 「科学技術は、目的に合致する科の純粋素材再現技術」だが。 基礎に、ふみつけ土台にしたのが形而上学なのである。 時間・空間の概念が、どうしてもおかしくなる。 つまり世界観・宇宙論・神学が基礎となっているので、科学技術が対象自然物として扱うこれらが、どうしても、ゆがむ。 この問題は、過去にも延々と述べてきたはず。 なので、ここでは時間・空間の捻じ曲げいじりが、どうしてヤバイのか、そこを注目してみたい。 時間・空間というのは、オイラたち人間が共有する直観認識の形式。 数学の定義のことじゃおまへん。 中身ではなくて、人の「認識の形式」。 つまり感性の世界のもののはずだが。 当然中身も含んでしまう。 時間・空間の手順や、あとさき経路、受け取り直しや繰り返し、そして延長。 それらなしに、オイラたちは「有」を持てない。 つまり時空なしに、オイラは存在しない。 これは、身体なしにオイラが存在しないのと、まったくの同義である。 つまり「時間・空間の捻じ曲げいじりは、身体のねじまげまげいじり」、なのだ。 ここに、すでに関係が見えているのだが。 物理学であろうが、気象学であろうが、それは時間・空間の捻じ曲げいじり意図で成立するのだが。 形而上学に囚われた者たちには、それが一切見えてない。 知性を、感性とは別物に仕立てる、からだ。 すべてが身体とつながり、感性とつながり、命や感性とつながっているのだが。 それが見えてない。 知性を感性と切り離し、超越させて別物とし、あげくは存在者の存在なる超越者、三つ目にしたててしまったからだ。 さて、命題の、「具能シスが優生学となる」。 それは、ともに「三つ目主催の世界認識が形而上学だから」、である。 人の認識なのに人主催ではなくて、三つ目主催だと言うのだ。 環境は人にやさしい身体環境求めてなのに、自然にやさしい環境だと言うのだ。 時間・空間をねじまげて、あげくは超越さえさせて。 三つ目の絶対知に、仕立てるから、そうなっているのである。 時間・空間という、オイラたちの享有の身体を、その感性という一般共有物にムリヤリ仕立て。 それをさらに超越させて三つ目にする。 つまり、存在者の存在にして、対象化認識して偶像として建てる。 自分の感性が、いつのまにか偶像的存在者となっている。 デミウルゴスが、出てー来た、のだ。 これがポイエシス、ということ。 そのポイエシスは哲学者を殺す。 しかしモナドロジーはデミウルゴス教説ではない、という人がいる。 破綻や病はない、と。 ウソおっしゃいますな~。 未完成のデーターベース理念が、天上で待機しちょる。 未だ未知のカーネルが、天から見つめちょるではおまへんか。 根拠とか、根本原因と、彼らが主張するもの。 それは十全な神ではなくて、「写し機能」、なのだ。 これが、知性というシロモノの正体。 その写し機能はしかも、彼らの学問上では間違いを起こす。 転写間違いをやらかすんだという。 だからDNA論議にメッセンジャー持ち出した。 転写間違い弁証説明のために。 これを具能シスだ、と言わざるをして、何というか。 オイラたちの、身体の生命の基礎をなすDNAが、それだというのだ。 彼らが、自分の具脳死す主義に気が付いているのかどうかは疑わしい、が。 人の個体生命が有限であるのは、この具脳死すのせいだというのだ。 そのとおりだろう。 しかしそれは、共有問題ではなくて享有固有問題にすぎん。 享有の死で解消される、人の罪とされたもの。 人の身体をデジタル化して。 個体を機械として見たらそうなる、というだけの話にすぎん。 永遠の命を求めて、三つ目を探して そこに具能死すを探す理由の、根拠理由にはない、こと。 その理由は別物なのだ。 つまり優生学を求める理由は、人という機械構造が中途半端だから、具脳死すだからではないのである。 むしろ人の身体が中途半端だから、というキリスト教思想と関係がある。 積極的なキリスト教の関与が、その本質が、ここで出てくる。 しかも超越させて出てくる。 超越させて、転写ミスを犯さない愚脳シス防止が絶対知の命題になるのだ。 理性がその判断に基づくべき絶対の知性は、唯一の知的直観。 その知的直観を支える絶対の知恵は三つ目がもたらすと考えてしまう これが一神教。 つまり、「一神教は防疫思想そのもの」なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月16日 11時53分46秒
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