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カテゴリ:哲学研究室
具脳死すは、なぜ優性学となり防疫思想を形成したのか、という疑問は。
疑問の時空がもともと、ゆがんで見えている。 だから疑問となるのである。 一神教という防疫思想が、時空をゆがめて侵入したので、そうなったのだ。 つまり一神教という奴隷制度と、三つ目思想、防疫思想は同じものなのである。 それらが、キリスト教の積極的部分に過ぎないのである。 時空が、ゆがめられて人工化されているわけだ。 時空というのは、人の感性あるがゆえのモノなのに。 それを無視して。 神の被造物、自然、神のシステム側の人工のモノとした。 時空をゆがめて、偶像化して、それを据えた。 人の認知は、身体を超越したコピーという時空反省だけを取り出した脱存的瞬間の。 反省にすぎないのに。 その脱存認知にゆがんだ時空をムリヤリ与え。 しかも超越導入として共有の神の側のモノ、とした。 ここに問題があるのだ。 実在を歪めた脱存反省にすぎないのに、実はそれを超越と呼ぶ。 これは西洋の伝統になってしまっている。 (脱存)エクジステンツは(超越)エクジステンツ。 西洋では同じものである。 しかしキリスト教の共有する超越概念と。 教会組織を敵とみなす脱存論者のそれは、まったく異なるものである。 脱存論者はあくまで時空を見ようとする。 教会組織は神の超越を見る。 教会組織は超越という言葉で、同時に、キリスト教の積極的部分である過去を隠してしまっている、その問題もある。 人はもともと、感性と知性で、でーきている生き物。 ロゴスとミュトスが関与と考えられる。 有限なサルの仲間。 その知性のみを「超越」という神の権限で取り出して、出ー来、させる。 つまりポイエシスにもたらすと。 そこに、三つ目の出来損ないが出来てしまったのだ。 これが、歪んで見えている当のもの。 これはしかも「超越」神が、「ただ一つ」である、というところに、もともと問題があるのだが。 彼らの普遍性を目指す一神論者は、そう考えずに。 不具合ができるのは、悪魔が邪魔するからだ、と考えるのだ。 しかし邪念うを挟まず積極的に一神教をつらぬこうとする人たちは。 悪魔もまた神の側にいて、神そのものでもある、ことに、そのうち気が付いてしまうのだ。 人が感性と知性で、できている。 それは確かなんだが。 この知性を感性とを切り離し、超越させたところに、大本の問題があるのだが。 それには気が付こうとしてない。 命題問題、なのだとは。 つまり問題の所在は、三つ目、なのだが。 みつめ、る、あるいは、みつめられる、なのに。 つまり、享有の不可解問題なのに。 そこに唐突に、共有問題を置いてしまう。 超越させてしまう。 エゴ コギト エルゴ スム、それはいい。 コギト=スムの、そのすべてに、見る主体と見られる対象物を、しかも一元化して置いてしまう。 しかも時空をゆがませて、ムリヤリ置いてしまうのだ。 見る人、見られる対象物自然、そして天上の絶対の知性、と。 この関係がすでに、ゆがんでしまっている。 形而上学命題が立つ。 つまり宇宙論、神学、心理学の命題が、「誓約なしに」突然に立ってしまう。 命題は無意味なので拘ってはいけない。 (これはアリストテレスの戒め)なのに。 これ(命題)に、なんと、帰依してしまう。 自分の身体という、ゆがんだ至上命題を立ててしまうと言っていいだろう。 それを神に近づけようとしてしまうのだ。 唯一絶対の真理という、ありもせんものに三つ目の力を想定して。 松果体を探し出し。 人は、自分が悪魔にすぎんことに気が付いたら、どうするんだろう。 デカルトはたぶん。 自分がゴキブリ同然の放蕩貴族で、悪魔の一員であることにも気が付いていた。 特権階級だったが、制約の多い、新興の特権者階級だったから。 キリスト教の世間が、完璧に病んでしまっていることも知っていた。 だからガリレオみたいな異端審問の目にあわんように、気を付けて、気を付けて。 宗教分野の利権は犯さんように、気を配ってた。 積極的キリスト教の分野は特に避けて通った。 人は悪魔の一員である。 これを堂々と公言し、しかも尊敬を集めていたのが。 もっと大昔の聖アウグスチヌス。 一切の享有利権を放棄して、ただ共有社会の公僕として働いたからだ。 オイラも小悪魔。 はっきりいって、哲学徒も人もみんな、悪魔だと思う。 しかし愚脳死す、ではないし、具能シスでもないのだ。 完全な理念など持てないし、三つ目が導いているわけでもない。 知的直観は経験に介入してこないのだから。 まちがっても永遠のイデアなど、見えてない。 みつめ、(られ)ている、過去があっただけ。 オイラが主体へと見つめているのか、オイラが客体で見つめられているのか、それもハッキリせんのだが。 コギト、という瞬間の反省事態においては特に、そういった明確な対象認識ができなくなる。 これは時間・空間から脱存してしまうからだ。 一方、日常の実在はといえば。 ウロボロスである、バーチャルである、だけ。 しっぽも始まりも見えない、経験があるだけ。 それだけわかる、ぶっ壊すことができる、だけ。 つまり善人だとか悪魔だとかは、これも本当はハッキリせんのだ。 これをハッキリさせたいのがキリスト教なのである。 特に積極的キリスト教は、 逃げていた感性も捕まえて、ゲロさせ、黒白徹底させる。 むりやり告白させる。 善神は悪魔でもある、そのことを明確に見せつける。 但し超越者であることをも明確にして。 この超越者というのは、「時空を」超越、という意味である。 時空に囚われない、時空の主人であって奴隷ではない、という意味。 人は、すべからく超越した神の奴隷。 時空に囚われた羊なのだ。 知的直観を支える絶対の知恵は、三つ目がもたらすと、そう考えてしまう。 これが一神教だ。 知的直観は絶対に正しい、のだからだ。 これが誤れば、具脳死すに落ちる。 直観は誤るじゃんか、と思っている人がいるだろう。 それは具脳死すじゃなしに、定義無視の粗雑な「間違い」というもの。 直観の意味を、経験的な後天的認識と混同しているから、そうなる。 しかし直観は、誤りがない先天性を持つから直観、なのである。 直面した転写コピーの場、だからだ。 コピーで写された、転写済み、天赦済みのものではない。 免罪符は得てない。 その場のことを言う。 この天赦を機械転写に考えるから、おかしくなるのだ。 デジタル化しちまって狂う。 ゆがんだ時空をしのびこませて。 空想企画なのに、現実企画と考えてしまうから、おかしくなる。 科学技術は、合目的対象認識分類企画の再現技術なのだが。 共有も享有も、組織も現実も、今はごった煮。 で、わからんしてしまっている。 忍び込ませた利権が、そうさせてしまっている。 基礎に形而上学があって。 それの持つ修辞学が、哲学を装って詐欺をやってるのだ。 すべては共有と享有の混乱である。 その事情は、キリスト教の三つ目主義にある。 これの収斂先が、つまり修練先が、積極的キリスト教だと、オイラ主張しとるわけだ。 オーム返しのモトは、ナチズムなんだと。 オイラはナチスのハイデガー先生に勝手に押しかけ、勝手に弟子入りした小悪魔だが。 ナチズム思想家じゃない。 多神教徒だからだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月20日 08時19分04秒
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