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2024年01月04日
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カテゴリ:哲学研究室
さしあたりの関心は、ストア派で生じた、ねじれ問題。
 哲学が、いつのまにか修辞学に成り代わってしまった泥沼問題である。
 が、多神教の宗教が一神教や無神教になってしまったというこれが関係ありそう。
 しかもそのストア派が。
 現代西洋に哲学を伝えた組織、なのである。

 享有の哲学は、従事者が死ねば消えるが。
 組織の共有修辞学となったものは、しつこく受け継がれる。
 おいらたちが哲学史として受け継げるものは修辞学部分のみなのだ。
 功労者の総代表が、デオゲネス・ラエルティオスだ。
 修辞学ともども、哲学も伝えた偉人である。

 その哲学なるものも、すでに信仰と一体になってしまってた。
 形而上学の諸問題になってた。
 これは修辞学などよりもっときっぱり、哲学とは無縁なものだ、とオイラが言明してきたもの。
 しかし西洋社会が一神教1本槍の社会となったため、これを切り捨てることは大変、というより事実上ムリで。
 多神教を選んでしまえば簡単なのだが、連中にとってそうはいかん。

 そしてそもそも、多神教社会には哲学が育たないのでは?
 との疑問が残るのだ。
 万年単位の、世界最古の歴史があるわが国には、西洋哲学のヨウナモノはなかった。
 なぜか西洋風の修辞学も、なかった。
 あったのは、今は消えた有職故実。

 世界最古の文学や有職故実の学や文化誌、風土誌、国学などはあっても、哲学や技術工学は、ない。
 神話は豊富だが神学もない。
 超高度な数学や思想や技術はあっても、ほとんど不文律の思想や技術。
 心構え書は山のようにあるが、工学書はない。
 庭についての膨大な図書もすべて心構えの書だった。

 膨大な歴史書は、文字ともども一般には隠されて来た。
 神社では日常的に使ってきたんだが。
 実は、膨大な種類残ってる古代文字すら、ないんだとウソついてきた。
 神代文字の諸々は、種類も量も凄いものだ。

 哲学的対話には、こころの一意形態が必要なのではないのか。
 すでに多神教的ではなく、ねじれて一意となっていることが必要なのだろうか?

 一神教社会のそちら側でも、一意一徹に考えて哲学が絡むと問題が生じる。
 出来損ないの一神を選んだり(具能死す)、悪魔を選んだり(悪魔主義)、無宗教者となって自己破滅したり。
 散々だ。

 形而上学に関して言えば。
 破綻、あるいは破滅したそれらのみが、初めて哲学だ、と言える始末。
 (ドウンス・スコトウス先生は認識破綻、デカルトは形而上学破綻、カント先生は先験的誤謬)
 (ヘーゲルに至っては、哲学脱出、ハイデガー先生も主著破綻で哲学棄却、素朴な思惟に戻ったし、二ーチェはなんと狂気だ)
 そこまでいかんでも、ひたすらにへりくだる極悪人(聖アウグスチヌス)か人生破滅者(キルケゴール)などが、哲学を支えてきたのである。

 哲学は、その始まりからして100%多神教である。
 しかも自己享有の無知を知ることなので。
 必ず、多神教の土壌の上にのみ成り立つのだが。

 一意に対象認識したものを、目的をもって分析再現することは、哲学とは言わんのだが。
 <ねじれ>があることが、必須なので。
 それは合理的<目的企画>のナニカの点であり。
 修辞学や科学的<認識の態度>なのだが。

 オイラたちの<一意の認識の現実が、そんなものは、じつは許可せん>。
 これこそがねじレ点、矛盾点なのだ。
 この乖離が、バ-チャリターという、現実の<ねじれ>の実態なのだ。
 
 客観の客観など、世にはないし。
 それは絶対の時間も空間もないことが証明している。
 物理的にであっても、相対とか要求されるし、一意の観察時空確定すらできん。
 主観の主観も同様。

 あえて言うなら、この主観の主観が、<無知>ということであるんだろう。
 それを<ねじったもんが、無知の知だ>。
 客観の客観が、メタメタになって破滅になっちまう、その理由でもあるわけだ。

 ともあれ哲学は、修辞学における対話の、つまり共有の諸々として。
 主観・客観を含む、あらゆるありてある認識を一意に見張り、導いてきた。
 修辞学も、哲学的な<見まわし>や<見通し>のうえでこそ成り立つ。
 破綻を重ねつつも、次世代に受け継れてきたのである。

 それは多神教の土壌の上に立ってなかった、そのこと(一意である)と。
 (修辞学)や(形而上学)といった、へんなものを着ていたためだ。
 へんな着物が、逆に哲学を延命させていたのだ。

 哲学と現実の合間には、この三つがねじれて重なっている。
 多神教の神々と。
 神々の在り方と矛盾する一意の視点と。
 形而上学や修辞学といった、哲学でない着衣。

 これらが泥沼の原因なのだが、これらがあって初めて哲学が生き続けて継承されて来たような点が見受けられるのだ。


 アジェンダなどで受け継がれて来たのでは、絶対にないんである。
 アジェンダは、未来企画のウソもんだからだ。

 アジェンダは。
 19世紀から20世紀にかけて、ゲットーにいたユダヤ人が、その資本力で社会の表に出てきて、同時に多くの特権階級者が、その特権思想に迎合し。
 古代の秘密教団などの迎合が、さらにあって。
 彼らが旧王族と一体化し、特殊な魔術的一神教を、相次いで生まれ始めさせた。
 そのことから生じたものだ。

 そこから出てきた非哲学の未来魔術(社会情報扇動工学)が、アジェンダだ。

 投機的、図式投影をやる。
 彼らは魔術でもって、社会の共有ゲットー化、一意化囲い込みを推し進めてきて。
 不死だとか、超人、永劫回帰、優生学などの思想を駆使する。
 ナチズム(積極的キリスト教)の信仰もその一つの動きだったんやと思う。
 担ったのは、ユダヤ人とその類似の種族だ。

 人の時空が、人の有限さ、にあるんではなく。
 数学的次元だとか、宇宙秩序だとかの、<未知の純粋な原理原則にあるのだ>と言い始めて。
 事を一層ややこしくし、哲学の世界をかき回した。

 テクノロジーによる知的なAIシステムの<出ー来>確保で自信を深めた彼らは。
 やがて人体ではなく、これも未知のAIシステムに未来を託した。

 ご先祖にいた、実際に自分があるんだからいるはずの無数の神々と手を切って。
 今も、唯一の造物主に帰する、純粋システムの再現確保を願っている。
 レ・リジョンしたいのだ。
 一意の全体主義政策では個人人格すら認めない、今後もそのつもりのようだ。

 それらの未来を可能にしたかのように、彼らの動きを後押しするかのように一時見えたのが、<論理学という、これも一意への信仰>。

 これは<虚無神への一意信仰>。
 つまりニヒリスムスなのだが。
 論理の先験的矛盾、つまりパラドクスを見ようとしない人々は、純粋な原理原則を信じ求めて、やまない。

 形而上学的諸動機も、これと別にあるようなのだが。
 人社会の共有の現状にはとっくの昔に絶望してて。
 パンデミックだとか環境整備の為の間引きだ、とか言って、ついに最近は、世界各地で虐殺すら始めてしまった。
 あんたら認識無いかもしれんが、日本でも無数の老人や弱者がが殺されてんだよ。
 まともに統計出さなくなった超過死亡数見るだけでわかるはず。

 やってるのはキリスト教徒とユダヤ教徒だが。
 指導してるのが、もっぱら今は、特殊な環境論を持つプロテスタントとフランキストのグループである。
 地球温暖化だとか言ってる連中。
 資本家層も政府も大学も、同じ穴のムジナ。

 彼らの危険なアジェンダは、やっと今、修辞世界に認知されかかっているので。
 いずれ環境論者や優生学グループ、ユダの狂人ともどもも、権力の座から追放されるはずだ。
 いや、されなくてはならない。
 でなきゃ、オイラたちが一掃されるだけ。

 しかしそもそも、ここまで事態が深刻になったのは、哲学が<さぼってた>からである。
 修辞学にうつつをぬかし、形而上学の理念の問いに身を任せ、真剣に無知の知を修辞観察しなかったためである。

 そもそも無知の知とは。
 形而上学的な問い立てや、修辞学的な暮らし建ての、その根源にある知識がなし、っつうことを言う。
 だが、実務共有は修辞学理論に、理論は形而上学的理論に身を任せるしかないのだ。

 理論の媒介を必要とする。
 この理論に論理学がかぶさって、虚無主義を持ち込み、修辞世界をも破滅させてきた。 そんな自分たちの身の上すら、ロクに<世間では今、語っていない>。
 それがまさに、哲学が、さぼってきた証拠。

 そう、この<世間で語られてない>、というのが、最もダメな点なのだ。
 単純な、無知を自分で知ることなのに、一切語られてない。

 その昔のアテナイでは、体育と並んで最も重視してたはずの哲学が。
 キュニコス派の動きも活発にあったのに、やがて一部の<知者>だけのものとなり。
 そのうち体育も忘れられて。
 ヘラスの哲学は、諸民族のポリス諸国家とともに、滅んだ。

 世間では、誰も語ってない今日のように、なっちまった。
 そしてアテナイも滅んだのである。
 世間で語ってないと、滅ぶのだ。

 しかし多神教の土壌の上に立って、修辞学や形而上学といった、へんなものを脱ぎ捨てて、となると。
 さて無知の知が何をするのか、というと。
 何もできん。

 ・・・すべき、ともいった目標が入るべきなんだが。
 目的となる道徳というものがまったく念頭にないので。
 <十全な目的探し>、となってしまうのだ。
 へんな方向へ突っ走ってしまう。

 享有できない時空の意味と、共有できるはずの時空の意味を巡る。
 豊饒な対話をめざす<べき>なのであるが。
 自己の享有倫理に問いかけ、共有道徳をこそ記述し伝えるべきなのであるが。
 その先にはもちろん、暮らしを建てる、という目的が<先験的に>あり。
 必ず、修辞学も待ち受けるはずなんやが。

 しかしそこから、十全な目的や書かれてもいない道徳からの、出発ではなく。
 虚無だとか、わかってもおらん予定企画から出発してしまう。
 ディアレクチーケーは、暮らしをまず建ててからそののちに、自分の<無知>を見て始めるべきなのである。
 特権者が自分を選らばれしもんだとか言って、この暮らしを潰しにかかるんだから、なんともならん。

 自分は1人ではない。
 無数の先祖たちが自分という時空を形成している。
 その無知の後ろで見守っているのだ。
 享有の無知を知るなら、そのことがわかるはずだ。
 神々が、自分の生とともに居る。

 自分の無知の、その見えてない共有の背後には、無数の人格がある。
 無知である、ということを知れば、おのずとわかる、はずだ。
 エ・メ(家、神々の力=言葉)があったんであり。
 エメ・サル(言葉、女=、庭)がある。
 自分が生まれる前から、それらはある。
 それが証拠だ。

 自分の享有の認識の時空ではないのに、あるのだ。
 庭を騙り始めると長くなるので、これはまたの機会に。
 昔から何度も考えてきた領域だ。
 耄碌して、もう忘れたが。

 哲学は、無数の神々に見つめられての、無知ゆえの<見通し>や<見まわし>。
 つまりキョロキョロなのである。
 折に触れて口にする、学び(真似しのこと)である。

 まちがってもアジェンダではないが、知性が本性として持っているパースペクチズムみたいなものだ。
 そして忘れてはいけないのが。
 これが有限(幽玄)な「生」であり、「感性の表現している権能」だということだ。
 特権じゃない。
 すべての生き物に備わっている。

 見ること、見られることも、そこに必ず生への<感性の導きがある>、ということ。
 カント先生曰く、「あんよ紐」が必ずあるのである。
 目という器官がなくても、芽があり。
 女(メ)的なものがあればメ(神々の力)はそこにある。

 言葉に綾織ってポイエシスとなれば、もうこっちのもんだ?
 そういって詩人は哲学者を殺すが、修辞の担い手も、実は詩人。

 無知ゆえの<見通し>や<見まわし>、キョロキョロするのが哲学なので。
 君子危うきに近寄らず、詩人から逃げてしまえばいいだけなんだが。
 修辞は言葉を飾ったりしゃれた表現したりはできるが、危機管理や探知できない。
 詩人に危機管理能力はない、からだ。
 できるのは、感性をきょときょろ注視する哲学。
 但し実務力がない。

 権能が違う領域の、架空の仮定のものなのだ。
 この「権能」という考え方も正しくはないと思うが、カテゴリーの違いなので、そう見るしかない。


 ストア派のへんなねじれ。
 多神教が一神教に化け、哲学者がストイックな修辞学者に化けたこれは。
 どうやら哲学の、ゲシヒテとでも言うべき、やってくる命運だったのだ。
 これこそが哲学史の命(メ)運、ゲシックというより、立ちふさがる現実。
 そうなった、んやから。

 現実には、個々人の認識特有のねじれがありバーチャリターがあるわけだ。
 ストア派は、そのねじれを、生き様の態度で共有にして示してくれた。

 彼らが単細胞に見えるのは、アリストテレスが多神教徒にとどまって、ねじれをカテゴリーのせいにし、市井のポイエシスに委ねる、そのためで。
 実務能力のないアリストテレスには、修辞学の世界がまったく見えていなかったためでもある。
 じつはそれが、<アレクサンダー大王>を育てた、のかもしれない。


 脱線して歴史。
 アカデメイアから追放されたアリストテレスは、食えないので、やむおえず故郷に戻り。
 そこでアテナイでの名声を聞きつけたマケドニア王室に拾われた。
 王子の家庭教師となる。

 アレクサンドロス3世は、中近東ではイスカンダルという。
 バーラタ世界では韋駄天と称される。
 その王子が、家庭教師とどんな関係にあったのかは、よくわかっていない。

 都ペラから離れた「ミエザの学園」で16歳まで、もっぱらアリストテレスの教えを受けたという。
 「ピリッポス2世から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」とのお言葉も残る。
 彼の将軍たちも、同窓のご学友だったらしい。

 紀元前336年に父王が暗殺されると、彼はその王位を継承するとともに、強大な王国を掌握。
 普通の修辞感覚を持たない、じつはなぜか哲学にも興味を持たない。
 素朴な感性で人を操り、疑問や悩みを持たずに、兵士たちの心をわしづかみにし、支持されながら諸国を統合していく、未曽有の征服王ができた。

 カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破る。
 ヘラスのバシレウス(王)となったアレクサンドロス3世はコリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主となり。
 宿敵ペルシャを倒すと、やがてエジプトのファラオも兼ねた。

 少年のごとき純朴な野心を持つ、若き世界征服者。
 広大な領域にドラクマ通貨を流通させ。
 「東征中、アレクサンドロスの要請で、アリストテレスは「王道論」と「植民論」を書き送ったといわれる」。
 
 カネの損得があんまりわからず、実務の経営能力がサッパリない哲学者に学んだ大王が。
 ヘラス世界とペルシャと、そこに脅かされていた周辺諸国をも次々と統合したのである。

 そして王の行動は、バーラタを、めざめさせてしまう。
 次の時代には、チャンドラグプタという従軍していた奴隷少年を独立させ。
 そこの王座に導くことになる。
 彼の孫がアスカ王。

 グレコバクトリアを通じての中国開拓、その統一への道筋も、彼が作った可能性極めて高い。
 秦帝国への動きは彼が引き起こした。
 ヘラスの軍の制度や武器、太守制度や巡察など。

 それらは以後のバーラタや中国にも受け継がれていったからだ。
 そしておいらたち日本人の、支配者となって重なる諸種族も、彼の血を引く一門に導かれ、秦の前身である大秦(シリア)から中国に入った可能性が極めて高い。

 アレクサンドロス3世の特徴は、思慮深さと損得抜きの開拓心である。
 「早まって過ちを犯さないよう、何かする時には30秒考えてから実行に移したという」。
 兵士に里心がついたことで、彼は遠征をあきらめた。

 歴史談義はそれくらいにして。

 修辞学の思慮深さを支えうるものは、知識を前にした無知者の態度である。
 修辞学は知識の体系だが。
 それを支え思慮深くするのが哲学者の態度次第なのだ。

 王宮に詩人は多いが、哲学者は稀だ。
 小賢しい知恵者だと誤解されるからだろう。
 小賢しい知恵より、自分の無知を知っている思慮深さの見本と、教育への情熱がありさえすれば、帝王は生まれる。
 実務能力のないアリストテレスを見て育ったアレクサンドロス3世が、証明したのである。

 修辞学の別名は政治思想だが。
 実は素朴な享有の思惟を含んでいるので、政治哲学と言われることもある。
 この素朴な自分で考える小賢しい享有思惟が、哲学に見えてしまうのだろう。
 しかしそれは知識であって、哲学とは別の、共有目的のモノ。

 ヘラス世界には、この共有知識が満ちていたし、素朴な享有知識も豊富だった。

 ハイデガー先生に、このヘラス世界の、アナクシマンドロスの言葉という著作がみられる。
 哲学以前の、素朴な思惟についての論考だ。
 無知から出発する修辞者には、基礎知識として、素朴な思惟も必要?

 そう、ディアレクチケーにも、親しい対話のための基礎知識が、<ほんの少しは>要るのだろう。
 そしてそれは、ほとんどが<修辞学の分野のもの>、なのである。
 実務の目的を持ったものだ、ということ。
 学問を学ぶ、という目的を持ったものも多い。

 その意味で、古代ヘラスの哲学や哲学以前の修辞学の諸々は、哲学史の知識を学ぶ者には必須科目となっている。
 完全に脱ぎ捨てたら、アリストテレスが言うように、単細胞となってしまう。
 一意の先験的誤謬につかまった時、どないしようもなくなる。

 ソクラテス以前の人々にも、中には現代の思想家のようなダークな人や、エトナ山の火口から神の世界に飛び立ってしまった人や、コスモスのマトリクス知識につかまったような人も大勢居たのだ。
 科学技術のハシリのような人も、魔術にどっぷり深入りしたような人も居た。

 特にピュタゴラス教団なんて、超危険なコスモス・カルトの政治的魔術世界だ。
 組織も絡んでて、敵対したら宗教的秘密結社員が殺しにくる。

 全員、哲学とはほぼ無関係だが、彼らも修辞学者なのだ。
 しかしこれらは、哲学がポエチカのトピカに囚われず、修辞学との境界を曖昧にしたが故に確保できた領域。
 じつは修辞的ポイエシスと合体した豊穣な世界のこと、なんだと思う。

 オイラは狭量に無知の知に拘ってきたが。
 それは哲学が今日見失われていると感じ、余裕がなくなってしまっているからだ。

 「無知の知」という基礎がちゃんとみんなに押さえられていれば、トピカ(トピックのこと)よりポエチカ(詩学)が豊穣な世界であることは、いうまでもない。
 それでも、感性が持つ哲学世界の本質は、ここで人特有の認識のねじれがあるので、巨大な「世界全体」となるのだが。
 ポエチカは、微細なものの集合であっても、実に豊穣。

 そのポイエシス(詩)は哲学を殺す。
 だが、それも、<修辞世界の出来事>にすぎない。

 おいらは貧しい階層なのに食えない哲学を選んでしまって、本当に食えなかった。
 せっかく見つけた詩の世界を選ぶべきだった。
 過去も今も、哲学の世界ではずっと、孤立してきた。

 現に今も、下手な訳詞だけで人が少しは集まるが、粗雑な哲学史を真剣に読んでくれている人は数人しかいないようだし。
 政治思想やれば人集めは簡単だが、無知であることがばれる。

 稼ぎたい欲の皮突っ張った人は哲学なんて捨てて、エンターテイメント詩の世界を選ぶべきである。
 そして世を修辞学でもって変革したい自分の見えてない善人は、稼ぎなしには不可能になってる、その理由のほうを探るべきだ。
 政治は今は、カネの世界なのだから。


 哲学史は、まだまだ続けたい。
 昔気にしてたパルメニデスとヘラクレイトスも騙ってみたいところだが。
 次回は再度現代に舞戻って。

 <クァンタン・メイヤスー>とかいう人を調べてみたい。
 この人も、オイラには修辞知識が皆無の人だ。





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最終更新日  2024年01月04日 11時00分46秒
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