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カテゴリ:哲学研究室
パリ第1大学の哲学の先生やってるらしい。
ベルナール・ブルジョワとアラン・バディウの薫陶を受けた<思弁的実在論者>だと言う。 聞きなれない思想命題。 <ベルナール・ブルジョワ>という人は仏哲学界の大物のようだが。 「マルクス主義の方が歴史における挿入句であり、ヘーゲル主義こそが自由の哲学なのである」、と述べる変な人。 たぶんイルミナティだろう。 論理学・虚無主義のヘーゲル思想が世を実質支配したのであり、ユダヤ人はワキ役のかき回し役にすぎんのだが。 虚無主義と自由の区別がつかん、気の毒な人だ。 <アラン・バディウ>は、こっちはマルクス主義者である。 「集合論、数学の哲学、政治哲学、メタ政治、存在論」と、いろいろ手を染めた人らしい。 「毛派に属した。のちジャック・ラカンのゼミに参加し、近年の著作にみられるように、精神分析学の理論を独自に発展させている。真理の政治学を名乗ったり、数学(集合論、代数幾何)を研究したり、小説、戯曲を執筆したりするなど、その活動は広範に渡る」と、ウイキに言う。 さて、メイヤスーの処女作は「有限性の後:偶然性の必然性についての試論」という?。 カント哲学は「相関主義(correlationism)」にすぎない、というのが彼の主張らしいんやが。 カント哲学の入口の、「コペルニクス的転回を拒絶する」、というので気になった。 すごい人物かもしれんと期待してしまった。 若造やけど。 哲学を拒絶する哲学者? そんなんありか?と一瞬思った。 カントのそれは「人間は世界なしに存在できず、また世界も人間なしには存在できないとする立場で、あまり公言されることはない理論である」、とし。 (カントが公言したので、批判哲学が世に知られたのだが?)。 「これは不誠実な戦略であり、あらゆる人間のアクセスに先立って世界がどのように存在しているか、そしてそれをいかにして記述するかという問題を回避してしまう」と。 そういってるらしいのだ???。 自分で独自に考える、というのは大いに評価できる。 ぱっと相手して、うすっぺらく考えて<いや、そのとおり>、といってしまいそうになったが。 哲学に立ち戻れば、ぜんぜん、なんかおかしいのだ。 カント先生の記述は、修辞学でも形而上学でもない、哲学。 無知の知の自己表明に始まる批判哲学。 なので、わからん視霊者の夢はワカランママに論じても、存在に関してスコラ哲学のような軽薄な絵空事は描かない。 わからんことを掃き清めて批判して理解していく。 世界なしに人は(享有・共有)存在せず、世界も人間がいなきゃまるっきり無意味だ。 神々すら、テリピヌシュ神すらハッチたちがいなくなれば消えてしまうのと同じ。 つながりを、演繹を重視の対話路線。 しかも、存在ということに対しては(出が享有のものだから、共有に関しては)、哲学の立場は極めて不誠実に見えるのかもしれん。 未知のものに出くわすと、立ち止まっては眺め、口ごもるばかりだからだ。 しかしこれが本モノの哲学の特徴なのだ。 これを不誠実と見るのは実は、<自分という享有部分がまったく見えてない証拠>なんである。 自分の<無知の知を、まったく見ていない>。 批判はいいことだが。 得た共有の知識ばかり見ている。 それで思想を綾織ることが哲学だ、と思い込んでいるかのようだ。 誠実そのものでできているかのようなカント哲学を・・・これが不誠実や? さらに<戦略と見る>なんぞのは、<修辞学やってるつもり>なんだろうか?。 しかし共有社会の、いわば世界の世界性だとか、「あらゆる人間のアクセスに先立って世界がどのように存在しているか」などについては。 哲学的思惟の埒外なんだが。 素朴な思惟として(哲学ぬきに)相手すると面白味はある。 しかし本稿は哲学史なので、現代思潮の面白さはほっといて。 オブジェクト指向存在論などを含めた現代実在論全体の騒動も、次の人でやりたいんで。 あんまり面白くない話するかも。 要するに、ある前に、つまり先験的でなく<脱時空的に>は、有限でなく「ある」、とこの人は言うわけだから。 みえんもんが見える、ないもんもある、物自体もあるんや、と、いっちょるわけで。 認識できんものも、ある、といった、過去に他の人で見てきたへんな論議と同じ。 フランス人にはこんな変な人多いのか? 実に素朴な感性抜きの、ユダヤ風メタメタ、共有のみでの現実論議なのである。 ホンマにこれは「思弁的唯物論」とでも言うべき、<ものすごい意見>なのかも。 但し、哲学無関係の共有論議なのだが。 自分の享有感性は一切除外するからだ。 祖先的に、ではなく、祖先以前的(ancestral)と、この人はいう。 まさに思弁のみで言う。 人間的現実ではなく、前人間的な現実なんだと。 そんなもんホンマにありゃあ、だが。 人が、そのモトは単細胞生物やったからにゃー?、とでも言うんかいな。 素朴さが自分を通り越して、時空を通り越して、純粋思弁になっちまった。 そないなもん、現実にあるわけないやろ。 人は、人になったときに、初めて人となった、んである。 享有認識を持った時に、獣から人となった。 思弁になっても人はやめられん。 純粋思弁なんてのはムリだからだ。 獣や単細胞生命としての前人間的な現実なら、享有抜きに客観視すればありうるが。 それはもはや<自分>じゃない。 理解しえた、無知だとわかった自分じゃない。 自分に、自分となる前の生前の記憶なんぞは、まったくない。 ある、ない、は神が決めるんじゃなしに、享有が認識判断して、しかもねじれて経験的に決めるんであるからだ。 死ぬと、この経験的判断力の形式事態がすべて失われる。 そこまでしか、わからん。 自分の祖先以前的なもんは、だから、生きてるうちには、ない。 すべて生のうち、祖先の範囲内。 だから人は無知、なわけだ。 神が特権与えたりは、せん。 本能は知識じゃない。 単細胞であっても、祖先は祖先だあ?。 但し、享有認識無きゃ、人間とは言えんよ。 そんなん生体機械同然のもの、<単なる生モノ>にすぎん。 思惟を生体から取り出してヴァーチャルなゲーム世界に置くのなら、カーネルが見守る中で、もしかして一抹の享有があるかもしれんが。 ヴァーチャリターが運命の、人の現実には、現実のところ祖先以前のものなんぞ<あり>えない。 すでに。 それはスコラ学が、スコラ哲学なる偽物思惟を学問の誠実さから遠ざけ。 カント先生が、思惟のコペルニクス的転回やって、再度確認し直したことだ。 この人の論議はまるで、スコラ哲学。 虚偽・虚構への、あと戻り、なのだ。 カント先生は(うふぉな)物自体に対するア・プリオリな現象の優位を、確かに主張する。 それは、(客観)現象があるからではない。 現象があるから、じゃないよ。 形而上学的問いという享有があったから。 これはもちろん、批判で破壊した。 しかも現象を言い始めたのはユダヤ人で、これはカント路線じゃない。 カント先生がア・プリオリな現象論議をするのは、先験的な享有認識が<演繹的に>ねじれへと、バーチャリターな現実へと導くからだ。 導く(享有に共有の)アルケーが、あんよひもがあるから、見えているから、であって。 彼の言うような<相関関係主義である>からなんではない。 そもそもカント先生の先験的哲学に、主義主張は馴染まない。 基底に、(享有の)無知の知が明確にある、から、そう言えるのだ。 経験的享有のここには、なんにもないことがわかっているので。 逆に無知の知がなければ。 コペルニクス的転回がなければ。 哲学のないスコラ哲学の過去には<形而上学的な主義主張が必要不可欠だった>わけである。 この形而上学路線は、先験的誤謬が判明して、対話上は破滅した。 <哲学>では常に、共有の<主義主張>ではなく、この<享有の無知の知>が弁証論議を支えてきた。 弁証法をではなく、言い訳論議を、支えてきた。 それを無視するとメタメタになるのだ。 弁証する言い訳の前の理由は、それは<対話>、だからだ。 これが、共有のディアレクチークという哲学。 だから享有・共有が、その<ねじれ>への導きで、対話を支えてきたと言える。 ヴァーチャリターという、現実が支えてきた、というべき。 現実が弁証するんじゃない。 頼りなく支える、のみ。 客観主義絶対者の薄っぺらい(うふぉ)論議が支えてきたんじゃない。 <相関主義>とは、単に(彼が薄っぺらくしてしまった)<カント的な批判主義の別名>にすぎん、という、パスカル・アンジェルの批判がある。 この人は分析哲学者だという。 この人は、<カントは批判主義にすぎん>、と見ているかもしれんが、オイラの意見は、この考え方に近いのかも。 これはメイヤスーの享有する考えではないので、メイヤスーが薄っぺらくしか語らないのは当然なんだが。 彼の、メイヤスーの手の内である享有部分つうのは、実は、ないんでは? 「カント以来の近代哲学の中心概念が「相関」になった」と彼は批判的に言う。 この批判は、共有部分しか論議に載せてない。 大事な哲学部分は、無視?。 近代哲学(共有)の中心概念は、言わずと知れた「存在」で、これは神のことである。 共有部分にきっちり対象認識されているものではないのだ。 おいらは「実在」にすべきだ、とおもっちょるが。 中には「論理」だとおもっちよる人や、「真理」だというへんな人もいるし。 「現実」一辺倒、共有一辺倒のユダヤ人たちもいるわけで。 これが「相関」になったというからには、メイヤスーも<共有の共有しか考えちょらん>ということなのである。 メイヤスーは、「相関主義」は、20世紀の現象学も分析哲学も、そこから免れてないという。 これは現象学については一部、そのとおり。 ユダヤ人は特に共有しかない。 しかしハイデガー先生は現象学者なんぞではないし。 まあ、ラッセルも記号論理学者だなんて思って見たら、そうみなされちまうわけだろう。 哲学者享有の個々人の哲学を見ずに、共有論議ばかり追いかけたり修辞学やってたんでは、知識相手なのでそうなるしかないわけだ。 <思弁的実在論>については、以上で、かなり解ってきたはず。 ウイキにこうあった。 <相関主義>というのは。 「我々は思考と存在の相関物にしかアクセスできず、片方を抜きにしてはそのどちらにもアクセスできないという考え」、だから否定すべき考えだと。 いや、アクセスってのがそういう、<双方を関係づける>っていう<人為の意味>なんですけどね。 情報工学用語じゃない。 思考も存在も共有の神のもんじゃなくて、人為。 実在に対する<人間の絶対優位を説く哲学のこと>。 しかしこれを、誤ったアクセスだとみなしてるので。 思弁的実在論者は、この<人間の優位を否定>したいわけだ。 客観の客観があるんや、としたい。 つまりこれが<哲学の否定>に当たるわけだ。 ウイキに出てたこの<思弁的唯物論>の説明が、結構わからんので逆にそれが面白いんで紹介する。 メイヤスーは(カントのものとした)相関主義を批判するのに、2つの原理を見出すらしい。 「1つ目は、相関の原理」。 「我々は思考と存在の相関物しか知ることができない、つまり相関物の外部は不可知であるとする」んだと。 外部? 相関述べてんのに、相関論議の原則形式の事? 形式は相関の一部なので、違う問題になるやろ。 理論無視で、何のことやら、さっぱりわからん。 「2つ目は、事実性の原理」。 「物事は実際にそうなっているのとは異なった仕方でもありえたとする原理」 これは「物自体は不可知ではあるが想像可能であるという議論を擁護する際にカントが用いたものである」、そうな。 「想像することはできる」と? しかし事実に、想像付け加えたらワヤじゃん。 モノ自体を想像はできるけど、それはあるのかないのかワカラン論議になるってことを言ってるだけで。 その論議の相関の事じゃなくて、<空想上の理論として可能だ>と言ってるだけのこと。 論理として立つ、と言ってんじゃない。 無知の知に立てば、現実に、モノ自体はなくなる。 メイヤスーは、この二つ擁護で「弱い」相関主義が導かれるとし。 物自体を拒絶することにより、「強い」相関主義が得られるとするらしいんだが。 「強い」相関主義にとって、「思考と存在の相関物の外部に何かを想定することは無意味とされており、したがって事実性の原理は破棄され、強化された相関の原理に置き換えられる」となるらしいが。 メイヤスーはべつのやりかたするんだ、という。 それが、「ポスト・カント的なヒュームへの回帰によって強化された事実性の原理を支持している」んだと。 「メイヤスーは、すべての物理法則のみならず、無矛盾律を除く全ての論理法則においても、必然性という概念を拒絶」するんだそうだ??? これがまたわからん。 「ヒュームへの回帰によって強化された事実性の原理」だと???。 <ヒューム>は。 認識論がもとで、そこから出発する徹底した人間中心主義の人。 しかも前世からの認識など認めようがない、経験論者なのである。 観念の結合を人は知識だと言うが、その知識をヒュームは二つに区別した。 隠れてない、あからさまな関係想定上の(うふぉ上の)ものと。 カテゴリーが絡む、哲学的な関係を区別。 ヒュームのこれは理解できる。 類似性だとか、contiguity、causality(因果関係)などは、修辞の絡んだ哲学的関係なわけである。 一度心で反芻し、修辞された経験上の形容詞ものだ。 経験主義者は、直の直観的認識などを認めない。 なので、直感も(無知の知以外は)共有論議の対象、とのみ限定する。 それ以外は空想となる。 だから神の世界の、直の(空想)因果と、人間のモノである因果関係などを区別し。 後者についてのみ共有論述できる、と考えるわけだ。 過去に、無条件に認められてきた神の因果律などは、当然否定される。 心理的な習慣基盤の存在を認めるが、それが正しいものであるかは論証できないものであるとしたので、ヒュームは懐疑論とも呼ばれたそうだ。 たとえば神は存在であるが、それが正しいものであるかは論証できない。 ヒュームは<論理法則において、必然性という概念を拒絶>したわけじゃない。 <論理法則>なんてのをそもそも、認めてないし。 必然性というア・プリオリな概念は先験性原理原則の想定に過ぎず、正しいものであるかは論証できない、と言ってるだけで。 これが必然性という哲学上、修辞学上の論議対象に経験的に乗りうるものだとは認めているのである。 つまり必然性という概念が、論理法則において共有論議の直のかくれなき対象となることを拒絶しているだけであって。 修辞学上の論議対象に、経験的に乗りうるものとしては何ら問題ないのである。 「無矛盾律を除く全ての論理法則においても、必然性という概念を拒絶する」というのは、解説者の、メイヤスーの論議の読み違えと違うか、とも、思えてきた。 **理論を**論理と読むことで、前提命題のある修辞論議が、時空的な、しかも原理原則の命題に化ける。 化けた相手を対象にみなしてたら、すべてが間違う。 語学の弱いオイラは翻訳に頼るしかないし、時間がないので要約に頼っているが、これも怪しいのでは疑心暗鬼だ。 わからんものはわからんとだけ、しておこう。 カント的アップリオリとヒューム的アップリオリの差異も、オイラにはわかりかねた。 理性は感情の奴隷である。 倫理的判断は理性によらない。 これはヒュームのギロチンと呼ばれる有名な言葉。 カント先生の立場とまったく差異はないと思うんだが? オイラの誤解もありそうなので、危険なので、ほっといて先へ。 <絶対的偶然性> 「相関主義は(人間の認識の範囲外は語りえない)と考える立場」。 だというが。 主義者でないカント先生には馴染まない命題、とこれは述べたはず。 カント先生は「敬虔主義者」ではあるが、相関主義ではない。 思弁的実在論者は。 人の認識してない範囲外では、どんなことでも起こる可能性がある。 とおせっかいにも人の認識の及ぶ範囲外も考え。 この命題は人間の存在の有無に関わらず(必然的に)成り立つ。 と、人類滅亡後にも神をあらしめる。 時空をワヤにして。 偶然は、絶対的偶然性だ、というわけ。 アルケーもエポケーも演繹可能もないナンデモアリの偶然性で、ハイパーカオスともいわれるらしい。 メイヤスーは、この理論を法則にまとめ。 必然的存在者は不可能である。 存在者の偶然性は必然的である。 矛盾した存在者は絶対に不可能であること(無矛盾律)。 即自的なものの領域の必然性。 とするそうだ。 ナンデモアリの偶然性なのに、何が導いてるんですかね。 まあ、「人間の認識外においても成立する様々な定理」というへんな思想がどこにアルケーを持ち、どんな時空に立ってるのかで、すべてがわかるわけだが。 またまたばかばかしくなってきたので、次行く。 次回35-2は、これらのバカバカしい論議のオオモトらしいハーマンを見ていきたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年01月08日 15時57分06秒
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