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カテゴリ:哲学研究室
<オブジェクト指向哲学>
オブジェクト指向というのは、部品が組まれてプログラムになるという、米で流行した技術開発スタンスの用語。 効率性とかシステムの範囲なども、できあいのソフトモノから一意に考えた、主に<データーベース的な心構え>のことである。 クラス(型枠)とかいった、図式的概念を多用する。 つまり魔法のように人の心を操りインスタンスもするが、もとは哲学用語や魔術用語ではない。 モノつくりの電子ソフト用語なのである。 技術工学用語。 これを哲学というからには、モノを扱う唯物論のことになるんだと思うが。 開発や発明には馴染んでも、理論や論理、特に哲学には馴染まん概念だと思うんやけど。 馴染ませようと図ったのがハーマン?。 いや、単に現状理解したかっただけかも。 クラスの概念把握するのにはオイラも時間かかった。 この用語のもとは「ゼロックス社パロアルト研究所の計算機科学者アラン・ケイが、その言語設計を説明する過程で誕生」させたものと言われるそうだ。 これはハーマンの<オブジェクト指向存在論>、の流行を追ったものというより、ハーマンが、発明されたこの言葉を論議に利用してるだけなんと違うか?。 すべての対象を、そっくりそのまま哲学的理論のうちに取り込んでしまおう、というのが、ハーマンのオブジェクト指向存在論?の目指すところ?らしいので。 これだとオブジェクト指向じゃなく理論志向になるんやが。 オブジェクト指向そのものは、あくまでオブジェクトへの<有用性>を目指す。 なので、知識、技術的な論議なのである。 ソフィストの、知恵者のものであって、実務力皆無の哲学とは本来、無縁なものである。 ハーマンは南カリフォルニア建築大学の教授。 別格のプロフェッサーというものらしい? 教授に、さらに格が要るんかいな。 「西洋哲学の言語論的転回を逆転させようとしている。自らの思想をオブジェクト指向存在論(Object-oriented ontology)と呼んでいる。思弁的実在論という哲学的運動の一員であり、他のメンバーにはイアン・ハミルトン・グラント、クァンタン・メイヤスー、レイ・ブラシエがいる」、とあった。 メイヤスー以外のメンバーは後で見ていきたい。 しかし<言語論的転回>て? これも何のことやらわからんので、さいごに回したい。 ハーマンは、ハイデガー先生の論議をヒントに新境地を開いた、というものらしいが。 「現象学の歴史には欠陥がある」と、ちゃんとそこは見抜いてるらしいので期待は持てる。 彼はオブジェクトすなわち対象のモノを、<自律的存在>として扱うそうだ。 自分に従属していると考えるんではなしに。 あらゆるモノはオブジェクト対象者、であるとする見方とはまったく違う、相反の見方? 言うてることが、なんか矛盾してるけど。 すべてがオブジェクトなら、対象把握にすべて縛られてるわけで。 自律的存在であるなら、オブジェクトにはなりえないわけだ。 だから最初から若干、おかしい。 存在者と言わず、存在というところがミソか。 うふぉ、はどうすんのやろ。 まあとにかくオブジェクトは(人の認識に属する)存在なのか、(自立)存在者なのか、存在者にせずに存在でごまかすのか、そこがオイラ気になるところ。 現象学は、「オブジェクトの持つ独立した生を常に従属化させ、我々(人間)のオブジェクトに対するアクセスの下に位置づけてきたから」。 だからダメなんだという。 なんか、意志の下に感性的なものがあるからあかん、言うてるようにも聞こえるし。 享有を予想、想定してるようにも聞こえる。 とにかくオイラが現象学はダメだといってる理由とは、まったく違うようだった。 おいらは、現象学がオブジェクトをチョンぎって超越してメタメタにして、人との感性とのつながり殺すから、あかんと言うのだが。 彼は<形而上学の復活も目指す>ようなので、要注意。 「ゲリラ形而上学」というのがある。 この意図が問題だ。 彼の場合、モノが「他のすべてのモノに対して絶対的な自律性を持つ」、という。 モノの「生と隠れた相互作用を、隠喩によって「魅了」」するというので、若干ライプニッツ的でもある。 それも気になるところ。 ライプニッツは実体と集合体を設ける。 「ハーマンはそれとは異なり、オブジェクトが合体すると、新たなオブジェクトが生まれると主張する」んだそうだ。 彼はオブジェクト認識に、単一のモナドではなく2つのカテゴリーがある、というのである。 現実的オブジェクトと。 感覚的志向的なオブジェクト。 なんと感覚・指向性と現実とを、(倫理的な自己認識の上で)分離するのだ。 ()は、あくまでオイラ独特の見解でっせ。 存在と存在者の区分ではない、そこのところがミソ? 現実的なモノは、当然網羅不可能。 つまり正確さや精密さはあっても、厳密ではなくなる。 感覚的なモノは、自己のモノとして網羅できるが正確さを失うわけだ。 モノとして把握された存在的現実と、存在者的実在感の区分というべきだろうか?。 ちょっと論点がちがうようなのだ。 どちらもオブジェクトなので。 彼は、この二つにカテゴリー区分された倫理要請を、オイラみたいに倫理要請とは捉えていないようである。 この<一意的合一>をこそ重視し、そこへと再結合を図るからだ。 もともと合一なのに?。 疑問点出たので若干立ち返って。 2つのカテゴリー区分の言い分を、もう一度最初から聞きなおしてみよう。 ハーマンにとって、あらゆる<もの>は、すでにオブジェクトである。 うふぉ、などは問題外であって、具体的感性も論議にはなし。 そのオブジェクトは、<現実的オブジェクト>と<感覚的、志向的オブジェクト>である。 すでにぜんぶオブジェクト。 現実的オブジェクトのほうはもちろん、ぜんぶ網羅すんのは当然、不可能とする。 対象者には、捉えがたい<現実特有の深み>がある、からだ。 客体的(present-at-hand)状態に還元されたその深みをこそ、オイラたちは共有においても享有においても、<現実>と呼んでいる。 その現実は決して網羅され得ない。 この網羅不可能性が、形而上学的な問題を生じさせるんだと彼は言う。 享有信仰ではなく?。 2つのオブジェクトは、いかにして相互作用することができるのか、と言う共有オブジェクトへの問いが、これは彼の課題ではなく、カントに見立てた課題。 言わば、うすっぺらいカント論だ。 彼の言う形而上学的問題というのは、網羅不可能性認識が起こした、現実の深みとはなんぞや、という先験的誤謬を含んだカトリック伝統の存在への問いではなくて。 網羅不可能性認識と感覚的・指向的オブジェクトとの<相互作用>への、そっちへの関心なのだ。 つまり共有実務の心理学的課題、のほうかも。 彼の形而上学は伝統的なカトリックのそれではない、わけであるから。 だからゲリラというのかも。 ここにも伝統なそれとは別のレ・リジョン志向があるのだが、わかるだろうか。 間違いなく本物の形而上学が、ゲリラ的に、ここにはある。 哲学ではなくて、信仰がある、と、ちゃんというべきかも。 彼の言う<相互作用>というのが、現実と感覚・指向をレ・リジョン要請する。 それが命題となっている。 心理学的課題、となっている。 現実と感覚・指向が、オブジェクト的にそれぞれ一意のベツモノとして捉えられているが故の、これは「レ・リジョン」なのである。 宗教が基底に居座っていて、見えてないのだが、そこにあるのだ。 現実の網羅不可能性が、形而上学的な問題である先験的誤謬を引き起こしているというカントの批判哲学の命題は、みえてなくて。 こっちははっきりせんのだが。 そこらあたりまでは、オイラの認識とも、ほぼ一致するようだが。 <現実と感覚・指向をレリジョンさせねば>、という宗教的目的命題が入ってきて。 心理学を形成するので。 そこで、哲学ではなくなっている。 カント先生の場合は先験的感性論の、一見心理学的哲学なんだが。 現実と、感覚・指向は、おいらという身体のものであって、時空限定された客体認識のものではないのに。 どこからこんな宗教的命題が入り込むのか、気にはなるが、まあゲリラだから。 ともあれ、この線でハーマンの(宗教に基づく)ゲリラ形而上学が立ち。 時空を綾織ってプログラムしていく<用具的オブジェクト世界のデーターベース深化に>つながっていく、というわけだ。 つまり哲学というより、ここには技術工学的な要請があるようにも、見えはする。 課題を得て成立したハーマン心理学の、この形而上学的な問題の解決策を見ていってみよう。 繰り返すが、これらの論議はあくまで心理学であって哲学ではないのである。 <代替因果(vicarious causation)>概念の導入で、彼はそれを果たすという。 オブジェクトは「意図(intention)の内側においてのみ、相互作用する。 因果の外面ではしてない、というわけ?。 なぜかというと、現実的オブジェクトはそもそもアクセス不可能、だからだ。 だから認識の形式には、外面には、上がってこない。 知識とも関係とも、翻訳すら、外面でのアクセスは不可能とするからだが。 「オブジェクトは、それが関係する限りにおいて知覚するのである」と述べ。 外面無による内面を考えて。 新しい哲学的分野である「思弁的心理学(speculative psychology)」を考案 したという。 この心理学はだから外面共有ではなく、内面の享有かというと・・・。 「オブジェクトは間接的にのみ知られることができる」。 まるでこれって、直接認識不能なイデア論じゃんかよ。 彼の言う<思弁的心理学>が、その内側においてのみ相互作用を果たすんだと。??? すべてが液状化し泥沼化してきたので、一旦佇みたい。 先に<代替え因果>、ついで<思弁的心理学>をもういちど見てみたい。 世間も地震多発で大騒ぎだが、おいらは孤独に無暖房のコタツで佇みしかできん。 <代替え因果> ハーマンは断絶を無効化することなく、関係するアクセスを考え出す。 なんと現実の深みから、それを探し出してくる? ここが怪しげなとこ。 オブジェクトではアクセス不能なのに、アクセスのヒントを、めくばせをみつける? (ヒンブリックはハイデガー先生の概念だ)。 「魅惑」の概念でもって、その<代替え因果>だ、として説明しているようだ。 たとえば魅惑するものに対する<芸術作品>。 これが、その<代替え的因果の結実>、というわけだ。 また、木綿と火の関係に燃焼という概念を持ち込んだりもする。 フロギストンは実在か否か、という、昔に騒がれたあれか。 オブジェクトが、なんらかの媒体をとおして他のものに<間接的にのみ>かかわっている、とするのだ。 オブジェクト同士が直接関わっているのではないのだと。 (人の感性や倫理的図式操作など、ではなしに)? 彼はあくまで外面で、共有で、魅惑を考えようというのだ。 だから代替品がでてくんのやけど。 「代替因果はつねに魅惑の一形式である」とハーマンは言う。 しかし研究者によると、後にはコレも軽視されていくようなんだが。 これはしかも演繹のための、あんよ紐みつけてんだ、と思うんやが。 (そのあんよ紐の出どころが怪しい)。 あくまでオブジェクトに、外面にのみ彼は拘るのである。 なぜかというと、内面はアクセスできんことになってるので?。 オイラは、これではまるで現実と逆や、と思うんやが。 内面がアクセスでけへんので外面の形式を代替因果、というんならわかるんやけど。 彼の場合は違う。 「わたしたちは,たんなる性質や感覚与件だけを直接的にとらえているのではない」と彼は言う。 「つねに統一された全体としての<感覚的オブジェクトを>とらえている」。 この感覚的なものもオブジェクトなので、ホンマまるでオイラは逆に思う。 (統一された全体としての感覚的オブジェクトを捉えられんので、たんなる性質や感覚与件だけを直接的に客観立てて受け取るんや、と思うけど。) 彼にとっては、こっちが大事で、ホンモト。 その「すべての感覚的オブジェクトは、ブラックノイズによって包み隠されている」とする。 「ブラックノイズとは、本質的ではないしかたでオブジェクトに括りつけられた機内持ち込み手荷物である」。 あくまでハーマンには、共有のオブジェクトとなる<形式のほうが大事>。 手荷物の中身なんぞは、どうでもいいわけだ。 魅惑の実体とか本質は、アクセス可能な、外面の代替え形式の方で。 実体とか本質、これはどうでもいい、と事実上言ってるに等しいわけだ。 享有は、もともと一切念頭にない。 あくまで断絶があるんだから、魅惑する感性実態なんぞも、どうでもいいと。 ここでなぜか、常識の魅惑の糸が、一点に集中、ねじまがっているように思う。 人の、つまり自分の認識が、アクセス可能な外面の代替え形式オブジェクトに、豹変してしまう。 友人の比喩立てて、彼はそれを心理学的に説明しているのであるが。 彼の言う魅惑は、もともと感性ではない、形式クラス<もの>の、わけだ。 もともとぜんぶオブジェクト。 つまり、なめらかな定量不能な<日常の叙情ではなくて>。 「諸特徴が剥ぎ取られた、感覚的<オブジェクトそのものとしての友人>」。 対象的な、モノ自体みたいなもん想定してるのか?。 魅惑、という共有形式を、魅惑と心理的に感じたものが作り上げるクラスの説明というべきか?。 共有アクセス可能な、定量可能な外面。 それの、代替え形式のオブジェクト、の話なのである。 友人として相手してるのは日常という感性的時空ではなく、魅惑というオブジェクトだ、というのである。 形式理論ではなく、形而上学的かつ論理的に(時空抜きで)外面形式のみで考えるわけである。 理論が理論ではなく、論理となっているここに、特異点ができている。 心理学が立てた現実が立っている。 現実の日常がバーチャリターに、全体把握不可能な現実になるのではなく。 論理なので、その論点命題がねじれ、すべてが空虚になる。 共有アクセス可能な、定量可能な外面の、定量可能な代替え形式オブジェクトが立つ。 それが友人だ、というのである。 「諸特徴が剥ぎ取られた、感覚的オブジェクトそのものとしての友人」が立ち。 あくまで外面の代替品が大事なので、それが<魅惑>というオブジェクト・クラスだ、というのである。 (この享有と共有の心理学的関係は、彼らの場合、オイラたち日本人とはまるで逆転しているように感じてしまう)。 (しかし理論の論点が空虚になる問題は、どうなんだろう)。 (<光る硬い信仰目的>が、特異点を介して<魅惑という命題>にすり替わっていいものだろうか)。 実は、代替品として、無知の知ではなく、共有心理学の形而上学的目的を持ち込んでいる。 なので、それが命題のすり替わりが、ここに起きてしまうのだ。 論理的に、なんらの誤謬は、ない。 しかしここには、カント先生が言う、形而上学特有の「先験的誤謬問題」があるのだ。 その問題を彼は一切無視する。 そのかわりに時空をも無視する。 理論が論理となって、現実のかわりに実現が立ち。 日常の現実をひっくり返してしまう。 魅惑と言う心理学のオブジェクトが、感覚的オブジェクトそのものとしての友人という、芸術品を立ててしまうのだ。 絵画とイコンの関係、美学と芸術の関係、フロイト的心理学とシェリング的形而上学などを騙るには、ここんところが面白いテーマ提供となりそうだ。 しかしここでは、カント哲学の否定を騙るのが彼の目的。 ハーマンの述べた、うすっぺらい形而上学が厄介な論理的心理学を生み出しにかかっている。 媒介となる時空論議、つまり先験的感性論議が一切論議上にない、のだ。 なので、カテゴリー論議も図式論議も、一見遠ざけられている。 つまり哲学問題が、単なる工学的心理学に落ち込まされようとしている、その現場なわけだ。 魅惑は「なめらかに統一された感覚的特徴を情緒的な衝撃によって引き裂く」ための引っ張り出し。 「友人は、もはやなめらかな統一的特徴によって覆われたものとしてわたしにあらわれてくることはない」。 彼は「断絶の形而上学としての友人に釘づけにな」り。 「それを媒介にしてなんだかわからない実在的オブジェクトとしての友人と代替的に むすびつくことになる」。 時空の連続は、なくなる。 私、という認識だけの時空のほうが、別の時空へと一方的に投げ出されるわけだ。 「それは、実在的オブジェクトのゆがめられたカリカチュアであり、翻訳である」。 「実在的オブジェクトそのものはつねに退隠する」。 実在問題とは無関係だ、とは認めている。 「実在にかんするただしい認識ができるようになるのではまったくない」と。 断絶の経験ができるだけだ、と。 そりゃ、哲学と無関係な心理学論議ですから。 これをハーマンは新しい哲学的分野だというのだ。 こりゃどうやら、だめです。 期待外れ。 <思弁的心理学>(speculative psychology) 直訳の「投機的」心理学のほうが、もっと適当でいいかもしれない。 思弁的知識のみで、勝手に心理学を作り上げ企画され熟考されてはいるが。 不確かな情報に基づいた、推測や予定が入ってるアジェンダ心理学なんかもしれん。 先験的心理学とか、経験的実験心理学と区分するためのものだろうと好意的に受け取っていたが、どうやら違うようだ。 これを哲学的分野というからには。 彼の考える「哲学」というのは<享有の無知の知>ではないわけで。 残念ながら、反カント主義の徒党たちに組みする政治思想のようだ。 修辞学なのである。 これに組みしてるとなると、ハーマンは哲学者ではない。 一般的な用語としては、世間に使われていないようで、ネットで調べても<思弁的実在論>が出てきて邪魔する。 グレアム・ハーマンと、ちゃんとでてくるので、ハーマンの修辞的心理学のこれを実在論にすり替える、組織的共有運動のようだ。 何人もの哲学科の先生が引っ張り出されて、徒党を組まされ、おら、組みせんんとする反逆者も出た。 哲学は享有の無知の知なので、共有運動などありえないのだが。 ユダヤ人たちが、この社会的な組織化運動を仕立ててしまっている。 オイラはあくまで、グループ的に思想を見ても、それは結果的にオナジグループとみなせるというだけで、<哲学に組織化などはない>、という立場。 カント先生は、白豪主義者で貴族志向であっても、偉大な哲学者である。 共有思想をアジェンダ化する、へんな思想がマルクスあたりから修辞学に持ち込まれた。 それ以降の思想史は、思想史というよりアジェンダグループ競技会となった感があるが。 これは、修辞学は哲学とも哲学史とも無縁なものである。 ともあれ、思弁的心理学というのは、思弁のみで、投機的かつ政治的にオブジェクト指向で考え出されたアジェンダ的な心理学の事だと判明。 心理操作の目的を持つ、実験思弁的かつ極めて危険なもの。 哲学徒は近寄らないほうがいいだろう。 他のメンバーと言語論的転回については節を変えたい。 正月早々、期待も裏切られるし、いやな思い。 **自分用コピー一切自由。落第してもしらんがよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年01月13日 10時38分51秒
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