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カテゴリ:哲学研究室
前節で、この思弁的実在論が目的を隠して生活一般の修辞・政治運動となり、徒党を組んで組織化されて布教活動行ってる、という話をした。
思弁的心理学という実務追及のアジェンダなのに。 それを隠して哲学だと主張したがっていると。 どうやらグレアム・ハーマンが音頭取り役のようだ。 徒党を組んだメンバーは、カンタン・メイヤスー以外にイアン・ハミルトン・グラント、ブラシエ、アルベルト・トスカノが上げられてた。 ブラシエは後に反旗を翻すらしいが。 ハーマンは、「思弁的実在論内部での派閥が増えるにつれ、「実在論」という概念は哲学においてたちまち重要性を失っていくだろう」とする。 おいらは、こんな思弁的実在論なんてのが世にはびこって哲学に成り代わったら大変なことになると危惧する次第。 もうなってるわけだが。 哲学の組織化、共有化が進み、個人のものである学問が組織に乗っ取られる。 それだけでなく、大事な個々人の哲学的享有部分が、消えてなくなってしまう。 有限な感性が全部見えん事になり、世間からの哲学の隠ぺい化は一層酷くなる。 しかし彼の危惧する「実在論」がボコボコ沸く、派閥だらけになるのは、むしろ歓迎。 それらが心理学的なモノから沸くのでない、そのこともわかってくるはずだからだ。 中には本物の哲学者も出てくるだろうし。 オブジェクトを「無用のフィクション」とみなして拒絶する実在論に対しては、十分に実在論的ではないとハーマンは批判するようだ。 それはいいのだが。 その根拠として彼が示すのが、<感覚的オブジェクト>なのである。 これがあかん。 そないなもん、うふぉの心理学図式なので、もともと、(感性的時空のうちには)ないからだ。 ア・プリオリな物事について述べるとき、カント先生は、うふぉの図式を述べることがないように気を使っている。 先験的、と、言葉を選んで述べるときには必ず、経験から演繹可能なもののみを引き合いに出している。 感性的な、生きている時空が、あんよひもが用意されている。 しかしハーマンは万事が目的優先なのだ。 感覚的感性があり、そこから演繹できるから、じゃなしに、感覚に形式が、オブジェクトがもともとある、というのだ。 彼が自分の無知の知を見ていない、外面の知識形式しか見ていないその証拠がここに歴然とあるんやが。 つまり、形式はあっても魂がない。 その証拠が見えてる。 感覚は、だまされることはあっても、決してオブジェクト形式には十全には嵌らないんやから。 現実やから、全貌がつかめない。 人は一意の対象認識としては無知な個人として、全貌がつかめんままにこの世に生まれる。 うまれたときから無知で、知識は生体本能みたいな何か以外に、なんにもない。 実在、なんていう概念も認識も、とうぜん一切持たない。 それがオブジェクト形式がない証拠。 赤んぼには、知識の形式の片りんすらない。 しかし感性が歴然とある。 不足があると泣き叫ぶ。 本能としか言いようがない感性的な、しかもつかめない深みがある、だけだ。 生きていく時空のうちに、いつしか享有的実在感(といううふぉ)が、その深みの周りに身につく、だけだ。 つまり反省ができて、享有が生まれ、共有も生まれる。 これもオブジェクトウムではない。 これは自分享有のみ対象の、うふぉのオブジェクト。 哲学的反省としてのみ成り立つものなのだ。 思惟のモーメントはコペルニク風に逆向き、つまりユダヤ人風に言うと志向なので、うふぉ、とオイラは嘲笑を込めていう。 対外共有に言明できるもん、ではないのだ。 一意に、うふぉで自分をオブジェクト化して作り上げている生命。 そこで初めて実在感は生まれるといっていい。 それに騙されて、オブジェクトが実在だ、と思い込んでしまう人も出るわけだ。 しかも言明目的を隠すために今度は実在の演繹過程を消して、共有オブジェクトウムのみを持たせようとする。 ハーマンは、その反省的思惟を取り去って、<共有オブジェクトだけ>にしてしまった。 しかしそのオブジェの自分は、最後は無知に帰るしかないのだ。 やがてオブジェクトも実在感も消えて、すべてが雲散霧消するのに。 死ねば、うふぉの反省が消える。 時空が消失してすべてが一期一会の由来に戻り、魂も当然、消えうせる。 なのに、魂の永遠にすがりたい?。 カルト化された信仰の証拠。 オシャカ様の言う通り、輪廻転生生まれ変わりなどは、この世にはないのである。 遺伝子は受け継がれる? それもオブジェクト、つまりうふぉで反省された、合目的に考え出された分析もの、だ。 唯物論特有の、アトムみたいなもん。 知識ではなく、汲み尽くせない現実の深みを知識で埋めたい、生きている時空の上でのオブジェクト的飾り物だ。 オブジェクトというのは、組み尽くせない。 現実の深みというのは確かだが。 それは未だ、すでに、知識ではない。 時間、空間の有限さがもたらしている、未知の構想力の、すべて未知の形式であるにすぎん。 じつは硬い形式と言うより、柔らかくて有限な、それでいて汲み尽くせない深みのある生命特有のもの。 これが魂の実体でもあるのだ。 これに異議を唱える、<魂の永遠を称するやから>が、例えばハーマンだ。 この(有限なこの世のみの)<実在概念を無視>せんとする。 扇動画策して光る硬いオブジェクトという、永遠の図式的偶像を建てようとする。 それが図式的形式(構想力のような)となって形而上学の先験的誤謬を生み。 無知の知の代わりに居座ろうとし、修辞目的や知識企画の原動力となるっているのだ。 オブジェクトというのは、その(有限な)魂が使う。 道具的な方法論議のもの。 その<実用論議部分>、共有目的論議にすぎない。 つまり心理学であって、決して哲学ではない。 有限な投機企画であるのは間違いないが、無限の原理や法則や秩序探求では、ない。 心理学の、このオブジェ、飾り物が、この世の実務の反省モノ、なのだ。 修辞学の扱う政治的テーマだと考えていい。 だから、これを志向する<実務の哲学などは、ない>と言える。 必ず有用限定の心理学がある、のみなのだ。 (あとでこの、米国で発展した心理学の歴史も考えてみたいものである)。 一意にくくれるオブジェクト知識なども、実はないのである。 対象認識に、はまらない多様な認識も見えてて、その知識もある、つまり神々はあると言えるのだが。 彼らは無視してしまう。 それは<すでにオブジェクトではないし>、<未だ知識ですらもない>、のだから。 これはハイデガー先生の、もじりである。 ナチスで評価できる部分は、この感性の有限さ、幽玄さ。 それらを(オブジェクトとしてでなく)実在として認める点である。 獰猛なフランス人は特に実在を認めないらしいが、そんな世間一般のように。 オブジェクトを「無用のフィクション」とみなすのは、もちろん正しくない。 注視すると、うふぉ、なんだが。 それはハーマンの言う通り、正しくないドクサなのだ。 オブジェクトは有用の目的で据えられたフィクションであっても、(感性の)その図式形式は確かに<ある>と、自分に向って言えるからだ。 無用部分を排除して成り立つ、共有ドクサは正しくない。 純粋悟性概の図式として、自分専用のカテゴリーとして。 人の<享有倫理へと働くものとして=オイラの意見>、うふぉは、確かにある。 しかしオブジェクトとなってしまったものは、唯一の現実などでは、すでにないのだ。 実務的に採りあげられた、論議し尽くせない現実の、些細な一面にすぎなくなるからだ。 有用さも、(実用的)心理学の、その一面の実務利用であるにすぎない。 またオブジェクト志向は、多様な現実における一つの<志向的宗教認識>にすぎないとも言える。 仮に立てたロゴス神の、捉えきれない神々の権能とそれのはまる目的を、そこに想定したもの。 それらの一つにすぎない。 形而上学的なものにおける先験的誤謬を逃れられない、<宗教を隠した宗教>。 そのレ・リジョンへの志向が、ここにあると言える。 だから、ハーマンのオブジェクト指向は、<オブジェクト共有宗教である>と言っていい。 哲学ではない。 <イアン・ハミルトン・グラント> グラントは、プラトンとシェリングを信奉する人物である。 英国人らしい。 ウイキによると研究分野は。「哲学的観念論、現代哲学、科学史・科学哲学、技術哲学、身体の哲学、人間の自律化、物理的なものとの関連における社会科学・文化学」だと。 「グラントは哲学者たちの「プラトニズムを逆転」させようとする試みを強く批判しており、むしろカントを逆転するべきだと主張している」そうだ。 彼の思想を形成したのはシェリングのようなので。 過去に述べたこの<観念論者政治家>を、もう一度思い出したい。 オイラは、この人物は<哲学者ではない観念論者だ>としてる。 修辞学的大物の、成り上がり貴族となった人物。 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング。 この人物は、観念的現存在=自然、に主語を与えようとした<組織の人>だ。 だからグラントだけでなく、ハーマンの親玉なのかも。 しぜんという隠れ無き現存在の様を、しぜんに扱わなかった。 自然という未知の想定モノ、つまり、うふぉ、にしちまった人物。 時空をカルト化させて主語を与えるためには、神と信仰は欠かせないのだ。 シェリング教授のドイツ観念論は、超越論的統覚への導きとして「将来芸術」を持ち出した、と過去に書いた。 シェリングでは、観念を導く実践や判断の主語に、無知の知ではなく。 「芸術」という、うふぉ、が持ち出され、投企されたのだ、と。 「芸術は、超越論的哲学の系列の終極だ」と言うのが、シェリングの立場。 超越論の主語に、無知の知などは無いのである。 哲学は、だから、ない。 形而上学という、「将来のオブジェクトウムの目的が」あるのみなのだ。 オブジェが投企されての、オブジェクトウム。 もともとなかった目的主語が。 そこで未来へと、跡付け投企され、宗教(レ・リジョン)実践部分ができ。 「芸術は、超越論的哲学の系列の終極だ」という主張となったんである。 この超越論の主語に、無知の知などはもちろん無く。 形而上学という、「将来の目的が」、そのための心理学が、あるのみとなる。 形而上学はもともと目的論として導入されたのだ、ということが、これでわかるようになっている。 神という目的を持つ、投企的学問が形而上学である。 グラントは、このシェリング信奉者なので。 彼は「哲学者たちのプラトニズムを逆転させようとする試みを強く批判」。 というからには。 知識としてオブジェクトウム化したイデア論でも引っ張り出して、みとめるのだろうか?。 神という、目的を持つ投企学問に、イデア論議を仕立てたいのだろうか?。 いずれにせよ、自分の無知を覗き込むに至る、破綻へのディアレクチークは、そこにはない。 有用を目指す<目的>がある。 彼は「物質の定義に基きながらプラトン以降の哲学史を新たに語り直す」そうだ。 身体主義(somatism)を批判し、踏みつぶす目的。 まるでAI主義者? 稼ぐために、そこまでせなあかんのかいな。 プラトン以降の哲学史は身体主義で、体育中心にできているからダメだ、というのだ。 アリストテレスは、対話で形容エイドスと(エネルゲイア)、を実体とみなした。 質料ヒュレーを区分して、哲学から遠ざけ自然学のものとした。 それでグラントはプラトン的な質料に戻って、質料をのみ持ち上げる。 アリストテレスの修辞知識で、新プラトン主義者みたいなことをやるわけだ。 現実構成の基礎的な要素がプラトンにあるだけでなく、現実を支配する力でもあるんだと彼は言う。 但し体育無視で。 現実を支配する、その力のみがほしいようだ。 「質料を実体と見るか便利なフィクションなのか」と迫る。 そのためにも、「プラトン的伝統における(思弁的物理学)、という言い方を」彼はするそうだ。 格闘技の大家から体育を奪い去って、思弁のみの自由極まりない物理学を構想したいというわけだ。 無茶やがな。 思弁のみで、自由な芸術優先の科学で。 「あらゆるものについての物理学」を構想し、そのまま神に成り代わり。 この世をば我が世とぞ、と、歌いたいわけか。 フランキスト悪魔めが! だから敬虔主義のカント先生などは、最初から敵だったわけだ。 つまり自由主義体制派の敵というわけだ。 悪魔が主人なんだから、弱肉強食の世界だから、敬虔主義など許さんというわけだ。 ウイキによるとフランス現代思想では「エピステモロジー」という分野ができている。 「科学認識論」と訳される。 悪魔が主人だから、弱肉強食の世界なんだから、ドイツの敬虔主義哲学などは許さん、といいうわけだ。 科学が体制派で、正しいんだと。 「認識論の問題は比較的最近まで自然科学化されずに哲学の領域にとどまり続けた」といったような。 トンデモ理論すら持ち出す分野が、すでにできてしまっているのだ。 哲学がさぼって乗っ取られているために、だ。 オイラは敬虔主義者ではないが、へりくだる事は共有社会では必要悪だとは思っている。 オイラたちの、世界最古の道徳の諺にもある。 <長いモノにはまかれろ>。 敵対せず、とりあえず巻かれておいて、一旦はオブジェクトウムに鎮座させて、視界を確保すべきなのである。 視界が確保できさえすれば、オブジェクトは専制君主の主人ではなくなる。 <アルベルト・トスカノ> 2009年の第2回目の思弁的実在論会議の主催者らしい。 心理学の形跡は完璧に消えている。 思弁的実在論/思弁的唯物論、となっている。 思弁的実在論の命名者はブラシエだとされ。 メイヤスーが自らの立場を「思弁的唯物論」として表に出す。 アルベルト・トスカノは、メイヤスーの代理人だったらしい。 彼らのまとまりの中心となるのがカント批判であって、<人間を優位>というのが、そもそも気に入らんそうだ。 彼らは人間ではないのである。 ハーマンの言?らしいが、「要約すれば、人は存在などしないという怪しい主張をしつつも、科学主義は人間の思考構造を存在論的頂点にまで持ち上げているのである」。 そして「この会議はある種の実在論を擁護」、と、ニュアンスが変わって、ハーマンの影が薄くなってくる。 メイヤスーは先に述べたとおり哲学者でないばかばかしい思想なので、以後無視する。 次節では哲学から大きく離れるが、行きがかり上、心理学の思想を少したどってみたい。 勉強が必要。 *アクセス様態変わっててウロタエた。世の変化についていけん。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年01月18日 10時38分23秒
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