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2024年01月21日
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カテゴリ:哲学研究室
ウィキには、「科学的な手法によって研究される心と行動の学問である」、とあった。 これは心理学を自然科学と同列に置きたいがためのウソ八百定義なんだが。
 じつは米国、フランス風社会での常識なんだろう。
 ウィキはホンマ、最近だめになった。
 
 心理学の歴史は、ローマ帝国生まれの科学なんぞ問題にならんほど古い、というのが真実のところと思う。
 その語源プシューコロギア(psychologia)からわかるように、古代ヘラス当時、すでにある。
 バーラタのヴェーダからある、という意見もある。
 ヘラスではたぶんタレスの頃からあるので、哲学なんぞよりもずっとこっちが古い学問なわけだ。
  哲学史で扱われる理由は、アリストテレスが修辞学で扱ったから。

 「心理学会(APA)は(心と行動の研究)と定義している」そうだが。
 その定義でいいと思う。
 どんな目的で、どんな方法で、どんな素材や、形容認識から、心と行動が研究されとるのか、そこは実に問題なんやけど。

 心理学は享有の学ではなく実務共有の学問なので、そこんとこはあんまり問題にせん。
 拘り始めると、すぐに泥沼になってなんともならんからだ。
 この研究に、特に科学的手法が付け加わったのはごく最近のことであるし、しかも怪しげだし、非倫理的でもあるし。

 アリストテレスの心理学的立場の解説には。
 <心身不分離の立場>、とあった。
 学問はそもそも心身一体、かつ倫理的でなきゃいかん。

 その後デカルトが再興し、経験主義のロックあたりが理論的な基礎においたのだろうことも、哲学と混ざってしまった理由。
 近代以降は、ドイツのヴィルヘルム・ヴントを始祖と見る立場と、米のウィリアム・ジェームズあたりを始祖にしたい(へんな=オイラの意見)グループとに、わかれるという意見見た。

 そんな上っ面はどうでもよくて。
 ここで見ていきたいんは、まず<学問の本質>と。
 ついで主に、<米でのへんなグループの動向>。
 
 特にMK・ウルトラなどの非人間的な実証実験とのかかわりなど見たいんやが。
 MK・ウルトラがナニカ、については自分で調べてください。
 下手すると殺されかねん危険もあるのでご注意。

 その一部の動きとして思弁的心理学が構想されたようだが。
 それが哲学に背乗りし、今は心理学であった部分を消したがっている、その理由を尋ねたいのでもあるのだが。
 おいらの今の能力では、もうムリかもしれん。


 <学問の本質>

 これに関しては、アリストテレス先生の修辞学で、すでに論じ尽くされてるんだろうとオイラは見る。
 が、はっきりせん。
 はっきりしてるのは、<身体と心の動きを、別物と見ない>こと。
 現実時空と別個のオブジェクトなどとは考えない。
 これが<心身不分離の立場>。

 アリストテレス心理学の特徴、つまり哲学に基づく学問の特徴なのである。
 心理はこころの動きであり、他人から共有的に見れば、ふるまいのみだが。
 必ず<身体の動きを伴う>ので、<心身不分離の立場>となる。

 これは一元論という形而上学理念では<ない>ので、絶対に間違わんように。
 ウソが書いてあった。
 心理学上のアリストテレス風の考え方であって、形而上学信仰などとは何の関係もない。

 心理学という学問上の研究対象を決める際の、大事な基礎的要点。
 心理という学問対象を設定する以上、必ず<一意にオブジェクト設定する必要が出てくる>、多元であっても一意対象にする必要があるのだが。
 その問題と、信仰上の形而上学を混ぜてしまうのは絶対にいけない。
 学問が、ごった煮になってワヤになるからだ。

 現実に照らせて哲学的に反省してみれば、一意に設定したとしても。
 現実にそのオブジェクトはエイドス「形容」とエネルゲイア「力関係」に分けて考えざるを得ないんだから。
 アリストテレス先生は哲学者なので、一元論などでは決して考えないのである。
 ローマ人ではなく、ヘラス人。
 多神教徒である。

 人の心理を研究対象にするということは、その心理の<本質を質す目的等>があるわけで。
 その目的等に基づいて、一意の対象が、オブジェクトが、人の心として、心理として選ばれる。

 アリストテレス先生は、自然学の場合にも、<作用因、目的因、材料因、形相因>という4つの要因と、更に二つの原則<形容と力関係に分けられての認識であること>を必ず介在させて考えてた。
 この力関係も学問分野に応じ、デュナミス、エネルゲイア、ウーシア、に区分される。 だからこの研究分野は<4因*2原理*3時空区分に沿った学問的一意もの>とならざるを得ず。
 ムリに実務で一意にしても、24通りもの理論ができる勘定。
 それに本質を一意に見据えたとしても時空問題が絡むので一元論などにはなりえないのである。

 また心理を持つのは、生きている人のみが相手なので。
 自分の心であろうが、他人のこころであろうが、人という、生きて身体を持つ存在から一意に、論議対象のオブジェクト化が目指される。
 そういうこととなる。

 生きている、身体と合一の心理のみがオブジェクト対象。
 死んでる身体などは、心理の対象外でっせ。
 あの世は相手にしまへん、ということ。
 オブジェクト化は世の真理ではなく、<学問の基礎に置く礎石>のことなのである。

 学問は、この礎石の上に、理論(テオリア)、実践(プラクシス)、制作(ポイエーシス)が目指された。
 現実を相手にするが、無知の知相手の学問ではないので。
 これはもちろん哲学ではありえない。

 心理学の分類は、自然学だとはなるだろうが、科学ではないし技術学でもない。
 そこんとこがはっきりせんのである。
 そもそも人の心理が絡むし、時空が絡むので、純粋に対象化などもできないはず。
 自然学風でありながら、生存の暮らしが絡む。
 つまり政治も絡むし、哲学も、どうしても絡むしかないのである。

 だから先生の講義録をもとに全集が組まれたとき。
 すべてを、ある種の修辞学にするしかなかったんだろうと思う。
 実際にアカデメイアでもリュケイオンでも、講義がどのように行われていたのかは、わかっとらんのである。

 全集での心理学風講義も、名目上フィロソフィにくくられてしまったからだ。
 修辞学にしといて、それを哲学と呼んだ。
 やったんはローマ人の、優れた何人もの修辞学者たち。
 彼らを賞賛すべきで、非難すべきではない。


 そのアリストテレス先生が学問の実務世界を、そこそこ整頓し。
 次にデカルトが心の本質を「意識」に見て。
 その理(ことわり)への哲学的理解を持った。
 つまりアリストテレス修辞学風の一意風学問対象認識を、<ぶっ壊した>、とは言えるかも。

 デカルトは、モノと心の二元的把握が(形而上学的には破綻するが)共有論議可能であること、それを明晰判明に示した。
 単なるオンブジェクト一意にしての研究が、すんなり成り立たないことをも、自分の形而上学の破綻でもって示した。

 いわばデカルト哲学によって、心理学は、その学問的足元をすくわれたわけだ。
 礎石をぶっ壊されたのである。

 結果的に大勢の学者が、自分で自分の学問の足場探しに熱中し。
 これが、いわゆる哲学の中興につながった。
 実務の、心と行動の共有学問である心理学も、勃興したのである。
 しかし心理学者の多くは、すぐに哲学を捨ててしまうので発展性がない。

 その後、ロックによって、学問の世界に経験主義が導入され。
 人は生まれた白紙の状態から、経験によって心のしくみが形成されると考えられるようになったというが。
 そんな事情は、じつはアリストテレスの時代から、いっさら変わっていない。
 経験主義が伝えた共有物は、もっと、ぜんぜんちがうものだ。

 共有において、先天性に対する後天的な経験的獲得の概念があるはず、という<哲学上の考え方例>を伝えたのだ。
 心理学上の、実務の考え方を伝えたんじゃない。
 無知の知理解が前提でないと、無意味になっちまう考え方なのだ。

 共有のみの心理学的には、あんまりメリットない。
 多いに利用できる学習の概念などの多くが、経験的獲得可能なものとも理解されるようになった程度。
 心のしくみは共有実務であって、多くが<後天的に形成されるんだ>ということになった。

 頭で考えてるだけの観念と、体で考える感覚との違い、なんかも論議されるようになってきたのは確かだ。
 <感覚は心と連合してるんだ>と。
 ここではじめて、アリストテレス先生の言ってたことを、あらためて反芻し始めたわけだ。

 しかし<純粋な感覚>というのが、時空抜きに思弁のみで考え出されて。
 やがて神経として分離されたものに比定されるが、これらも実は時空抜きには存在しえない。
 身体が必ず要る。
 身体はむしろ、それが無くなっても神経に作用して有を主張する。
 こんな問題も含め、心と体も、一つのオブジェクト命題ものだ。

 19世紀にはいって。
 基礎のぶっ壊れた無用の哲学ではなく、堅固な基礎の有用科学を作ろうという運動がおこる。
 哲学世界の経験論を実験科学に利用できると気が付いた、実務一辺倒の軽薄な連中が増えた。
 しかも無知の知も無視で、実験科学や、となって。
 アリストテレスの修辞学に戻ったわけだが、それすら気づけずのまま。

 ぶっ壊れたままの、学問の基礎の研究ではなく。
 基礎のそっちは、おれがぁ、おれがあ、という宗教家の哲学に任せて、ほったらかしになって。
 基礎不明なまま。
 有用な経験的論議によって仮想理論立て、実証実験、実務利用の、いわゆる科学技術利用が可能となったのである。
 合目的対象化認識技術は、かくのごとく引っ張り出された。
 心理学の世界にも、その<修辞学への政治の動きが>どっと押し寄せたわけだ。

 実務の取り仕切りを、つまりカネの得、金権を目的とし、理論修辞に負う。
 それが「修辞学」である。

 レトリカが起源であるが、レトリック的ではないので間違わんように。
 馬鹿にすべきものでもない。
 これが無きゃ、人は生きていけんと、世の誰もが気づいてる。
 無知の知の方は、世間でも無視されてるんやが。
 一見、なくても生きていけるように見えるようなので、いつも無視されてる。

 経験論の起こしたこれは。
 形而上学的信仰への圧力や、宗教界からの、その反発となり。
 哲学の世界でも、信仰を脱ぎすてようという動きが一方で起こった。

 論理学といった数学理論を、その基礎の身体から無関係にして、神に代わる絶対者に仕立てる、虚無主義運動すらも、ヘ-ゲルの一派によって起こったのである。
 この実務運動の一部は、社会で力をつけてきたユダヤ人のグループに担われ。
 共有倫理のおかしいままに社会主義や共産主義を生み、フランキストすら生んだ。

 心理学という実務の心身と行動を扱う修辞学も、これらの動きの中で、科学技術を志向したのだ。
 特にユダヤ人とは無縁な哲学とは別に。
 心理学として独自に立って。

 学問の基礎や動機が曖昧なままに、政治の表舞台に、おれも、おれもと、躍り出たわけだ。
 
 とりしきられた実務<目的>に沿って、オブジェクトを細分化して立て直し、<実践>的再現技術を目指すのが、科学技術である。
 これも、主たる担い手は、超賢いユダヤ人が中心。
 プラクシスが、実践が、起源である。

 出ー来が起源ではない。
 つまりテクノロジーは関係ない。

 プラグマチスムとは関係ないし、実践のための、その基礎などは無視された。
 これらの動きを、「心理学を哲学から科学へと移行させた」、というへんな歴史観的修辞表現としたいグループがある。
 哲学から科学へという、これはウソ命題なのである。
 哲学と無縁な修辞学の理論や実践分野を、哲学に生まれた経験論から実験科学へともっていくのも、どこかおかしい命題。

 哲学は無知の知なので。
 理論や、実践や、出来といった、時空の関わる現実に、<有用な修辞可能な部分は持たない>からだ。
 哲学から科学へという命題は、哲学においては成り立たない。

 心理学は、その部分が最初から違ったのである。
 有用な修辞学部分を、宗教的な形而上学的基礎部分は無視のままで、持っていた。
 基礎もワカランそのままで。
 そしてそのまま、経験論に基づく<合目的実証実験科学>へと移行しようとしたのである。

 理論や、実践や、出来といった時空の関わる現実の基礎論議、つまり哲学上の問題も含めて、基礎は全部スル-した。
 基礎づけのそれも、事実上不可能だったので当初に無視のまま。
 結果は、優生学的人体実験やフランケンシュタイン幻想を生んだだけだった。


 経験論から実験科学への移行として、フェヒナー(1801~1887)が語られる。
 精神物理学といった主題もあるらしい。
 心理学の対象は「意識」だとして実験心理学を創設したのがヴント(1832~1920)だという。
 彼は実験的内観法とかで、感覚・単純感情を分離とか。

 ここに心理学は実験心理学という新しい学問となった感があるのである。
 だから、近代心理学の父というわけか。
 しかしこれに反対の立場の人が、ちゃんといるのだ。

 ユダヤ人フロイト。
 だからヴントが近代心理学の父というのもウソなわけである。
 フロイト心理学を無視しちゃいかんよ。

 フロイトは、無意識こそ心理学的認識のオブジェクトだ、とした。
 既存の心理学を、その曖昧な基礎から、無意識を盾にブチ壊しにかかったのだ。
 これは、彼がユダヤ人なのに、哲学的態度だったのだ。

 無意識と言う、有用の、モトとなる基礎が経験の基礎に<あるんだと>、当然、無知の知の哲学のほうをも、ぶち壊しにかかった、ほどの人なのである。
 マーラーのノイローゼ治療の藪医者だけの人物じゃない。

 実は、もともと、この哲学破壊が、組織目的だったんじゃあるまいかと思える点もある。
 いわば心理学の立場からの哲学批判を、堂々と正面からやったのがフロイト。
 無知の知なんかはない、と言い切った。
 無意識心理学があるのみ、と。

 関係なさそうに見えるが、哲学に入り込んで、現象というオブジェクトに切り張り破壊工作してたのがフッサール。
 基礎づけ基礎づけ、と触れ回ってたのがナトルプ。
 カント学者となってアホな学生騙してまわってたのが、コーヘン。

 みんな組織の仲間なんだろう?。
 組織に属さんアホのオイラもやられて、はじかれてた。
 落第して、卒業まで5年もかかった。

 人は生まれつき「無意識」という意識共有形式をちゃんと備えてて、これこそが魂でありオブジェクトであり、(身体でもある=コレはオイラが言う、)んだとフロイトは言う。
 しかし、身体を超越したオブジェクトだとかについては、述べていないはず。
 必ず欲望従属のオブジェクト。
 (オイラの学生時代に、フロイト本のダンボールミカン箱1個分のコレクション持ち逃げしたやついた。カタのピンクフロイト音楽テープもうないけど、返してや)。

 堰が切れたように、心理学の基礎を哲学に任せず独自に騙り始める諸説がどっと出てくる。

 ワトソン(1878~1958)の<行動主義心理学>だとか。
 ウェルトハイマー、ケーラー、コフカ、レビンらの<ゲシュタルト心理学>だとか。
 ハル、スキナー、トールマンらの<新行動主義>だとか。

 認知神経心理学・脳科学、人間性心理学なども出て。
 米物理学者ブリッジマンの<操作主義>だとかもあるようだ。

 20世紀初頭には行動主義心理学が大勢力だったらしいが。
 1950年代以降には認知心理学が支配的な位置を占めているんだそうだ。
 次回は、これらの個々を、ピックアップで見ていきたい。





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最終更新日  2024年01月21日 13時09分15秒
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