哲学史挿入 哲学の仕事
この世には必ず、裏表がある。
表裏のないものはない。
裏の、あの世のことは自分にはわからんのだが。
この世とあの世も、実は、世というものの裏表にすぎんからで。
自分にも裏表あるんやが自覚できてないだけで。
これは、有と無が対になってて、裏がネガチブなので。
見えてないからなんだが、気が付いてました?
表裏が「ある」、と、ついポシティブばかりを重ねて考えてしまう。
ほんとうは、あの世は無にあたるのに。
そっちも、「ある」と言ってしまう。
それらを論ずるのは、ドクサという理論だ。
哲学の世界では臆見という。
だが、「理論」を裏返した、「論理」というのもある。
論理は、ネガチブな無から論議が立つ方のこと、なのだ。
哲学は普通は佇んでしまうので。
親しくない論議を安易に立てようとはしない。
しかし論理学は臆見で立てyしまう。
この、「表裏」と「有無」の関係はヴァーチャリターにねじれてて。
ややこしいのであるのが現実だ。
なにかいつも、ほかのものとつながり、人倫のカテゴリーとも関係しているが。
そのつながりが見えてないのだ。
この関係を整理して、親しく対話論議していくのが、哲学。
「無知の知」の、お仕事というもの。
お金は稼げません。
金稼ぎ宗教が、こんなこと普通は考えたり教えたりも、しまへん。
仏教が似たようなことやるが、あれは宗教ではない。
宗教は、レ・リジョンという、必ず「神を持つ」「カルト教義」。
教祖や教導知識が知ってる知識や知恵への、「受け取り直し」「幇助組織」。
だから、自分の無知には気が付かん。
哲学とは無縁なのが普通。
この知識や知恵にも、実は裏表あって。
誰もが「知」でもって「認識」しているのだが。
この世は、表の「知」のみではなく、裏の「感性」もあるのだ。
あの世とまちごうたらあきまへん。
知重視の宗教では、無視されることが多い感性。
もしくは将来に置かれたり、過去の知識にある、とされたり。
この「ある」というのも、無と表裏の関係に「ある」んだが。
しかも享有に、個別にあったり共有に、ともにあったり、するんだが。
ポシティブの共有のみ考えてて。
無は享有に押し込まれて無視される、というのが普通。
享有の死は無視される。
フロイト心理学に言う無意識なんてのも。
共有の裏が、ネガチブに「ある」ことを言ってるだけ。
「享有」のネガチブな部分については「無視」。
裏は、普通見ようとせんので見えん、というのが現実では常識なのだ。
この「ある」に特化して、感性的なものも採り込んで。
唯一造物神に仕立てちまったのが、キリスト教だ。
その感性部分の共有化を図ったのがルター派で。
積極的に推進したのがナチス(積極的キリスト教)だ。
だから、自分が悪魔崇拝してるのに、まったく気が付いてないやつも出てくる。
カトリックなども疑われてる。
それを見張るのも、実務は関われなくて。
実は本当は哲学のお仕事。
今は哲学が世の中で認知されてなくて、さぼらされている。
物事のすべてに裏表あることが隠されて、泥沼になってしまっているからだ。
知性と感性、知識と無知、神と悪魔、善と悪、享有と共有。
この世とあの世も、実はこの「世の裏表」。
知性と感性、認識・不認識が、ポシティブもネガティブも絡むのだが。
宗教が哲学を退けて泥沼にしてしまってる。
得と徳といった、無用、有用の区分もあるように見えるが
実は徳と得はおんなじ、モノ。
道徳と倫理も共有の道示唆と享有の禁止立札にすぎん。
数学で扱う時間と空間も、おんなじもの。
正と誤は、これらの表裏の数学的概念だし。
愛と憎悪も、本当は同じ哲学的概念。
表裏のないものはない。